第二十二話 セーリング考


      

純粋セーリングは外的要因に左右され、風の吹き方次第で走りが違い、その内容によって、その良し悪しを判断します。つまり、全ては風次第という事になります。そこに自由意思は反映されず、セーリングはままならないとなり、その通りなのですが、しかし、これは一面だけの見方に過ぎないと思います。

一部の方々は、意識的か、無意識的か、この風次第という当てにならない経験から逃れ、視点を競合に置いたり、或いは、旅の目的地に置いたりします。それらは、外部環境の影響はもちろんありますが、自分の意思がより反映される事になります。つまり、人は、自分の意思をより反映させ、できれば思いのままを経験したいんだろうと思います。

一方、純粋なセーリングは、その日の風次第です。意思の力で風を変える事はできませんから、完全な受け身状態、風次第、そこが今一、我慢ならない処なのかもしれませんが、そう結論付ける前に、もう少し考えてみたいと思います。

完全な受け身状態とは書きましたが、通常、我々は完全な受け身状態にはなりきれず、何かを期待しながら走らせる。そういう部分が多少はあるのではないでしょうか?だから、それに合わない風の時にはつまらなく感じてしまう。今度、いつ快走を味わえるんだろう、なんて期待したりします。

しかし、セーリングを楽しむ最善の方法は、完全に受け身になって、何も期待しない事ではないでしょうか?その日の、その時の風をそのまま受け取る。但し、その日の風において、いろいろ試行錯誤、工夫する事が自分の自由意思になります。微軽風から強風まで、そのままを受け取り、その中で試行錯誤を楽しむ。その日の風というルールみたいなものです。もし、それができれば、セーリングのあらゆる面を味わう事ができるのではないでしょうか。もし、味わった微風や強風を嫌うなら、せっかくの経験を無にし、快走だけを祭り上げてしまう事になります。

つまり、セーリングは快走だけが良いわけじゃ無く、様々なセーリングがあってこそ、快走はより快に感じられ、完全に受け身になって、様々なセーリングを味わうと、案外、快走だけが面白さでは無い事にも気づきます。最高の味わいが、必ずしも快走によってもたらされるわけじゃ無い。つまり、面白味に一点の快走だけでは無く、様々な快がある。もちろん、退屈感もある。それらの積み重なりこそが、セーリングの本質ではなかろうか?

受け身と言うと、消極的で、意思も無くと思われがちですが、そうでは無く、受け身は選り好みをせずに、全てを受け入れるという、とってもおおらかな態度です。これは、ある意味、何も期待しないある種の諦めかもしれません。諦めて、開き直ったかの様な感じですが、もし、完全にそうなれたら、それはかなり、積極的な諦めです。あれが良い、これが良いでは無く、何でも来いという事になります。

ですから、気軽にヨットを出して、その日の風を、知識と技術を学びながら、試行錯誤を持って味わってくる。それで充分だと思うのですが?さらに付け加えると、試行錯誤がやがて反射的で、考える事無く操作ができるようになり、そうなると、集中はセーリングの状態により注がれ、ヨットとの一体感を感じ、時に、最高の味わいをもたらす事があります。もちろん、これも快走時に限るわけでもありません。もはや、外的要因に左右される事が無くなります。ひょっとすると、風とも一体感を感じる様になるかもしれません。もし、こうなれたら究極かもしれませんね。もちろん、ピクニックもセーリングの一部です。


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