第六十三話 面白さの創造

快走を求めるセーリングは、あまり賢いやり方では無い。何故なら、その時の天候に寄るからです。微風では快走もへったくれも無い。せっかくの休みに微風なんてことは良くある事で、その天候は、我々の都合とは関係なく動いています。

我々の工夫や努力で動かせるものなら、何とかしようと努力しますが、天候ばかりはどうにもならないので、ほっときます。そのどうにもならない天候が、勝手に天候の都合で動くわけですが、どういうわけか、快走を求める我々は、自分の都合で求めます。それが噛み合わないと面白くありません。それで、できる事は、いつ天候が味方してくれても快走が味わえるように、知識と技術を磨いて、準備しておく事でしょう。我々は謙虚に、天候側に合わせるしかありません。

そう思うと、面白く無いどころか、ヨットの面白さが見えてきます。見方を変える事がまず一番。いつも、決まったように快走ばかりを求めない事かと思います。微風、軽風、中風、強風、波の高さ、等々のそれぞれの天候条件において、どう楽しむ事ができるか?

快走は誰でも面白さを感じます。でも、それ以外をどう扱うかがポイントになります。簡単に言えば、いつもそれなりの風をセーリングして、そこに面白さを見出さねばなりません。それぞれの走り方において、いかにセーリングするかを見出さねばなりません。微軽風は反応が弱い為、より集中力が必要です。その弱い反応を感じ取るというところに、面白さを見出す事はできないでしょうか?
それで、わずかでもスピードが速くなったりしますと、それなりに面白さもあります。

という事は、セーリングの正しい姿勢は、求めない事なのかもしれません。その時、その時の状態に対する操作と反応とで、その時の状態のセーリングを味わうという事になります。今日がどうであれ、明日は違う。あさっても違う。いつも違う。そうやってセーリングのバリエーションを、いつもそれなりに楽しむ事はできないでしょうか?大きく反応するか、小さく反応するか、それぞれ違いますが、反応がある事には違いない。天候が合わせてくれないのなら、こっちから合わせて楽しむ方が賢いやり方ではないでしょうか?

それともうひとつ、快走はフィーリングの世界です。フィーリングであるからには、それは絶対では無く、ある意味いい加減なところもあります。見方による、感じ方によるという事になります。つまり、感じる事は、その時、その時で決まったわけでは無く、曖昧なものです。そこで、これとは別に、客観的に見る面をもうひとつ持っておく。

どんな感じがしたかとは別に、客観的な見方をする事によって、ヨットの動きを両方の面で見る。
つまり、ヒール角度、風に対する角度、風速、スピード等々を見て、セールの形状も見て、客観的なデータとして見るもうひとつの見方をも意識しておく。

このふたつの見方は、瞬間瞬間に交互に行われ、そこに何か面白さを発見できないか?と思うのですが?こういう事は普通の事ではあるのですが、それを敢えて意識して行う。意識して行えば、徐々に、細かい部分まで意識されていくかもしれません。それはフィーリングにおいても、意識が違ってくるのではないでしょうか?今まで感じられなかった微妙な変化さえ、感じられるようになるかもしれません。最終的には、いかなるフィーリングを得られるかが重要かとは思いますが、それを助ける為にも、客観的な観察というのは、役に立つのではないかと思います。

フィーリングは自分だけに通用するものですが、客観性は普遍です。その客観的な情報と自分だけのフィーリングという情報がどのように関わるのか?その関わりの中に、面白さがあるような気がします。そこにゲームを生み出せるような気がします。

フィーリングだけのセーリングでは、セーリングが雑になるかもしれませんし、客観的観察におけるセーリングだけでは、面白みが無い。もちろん、片方だけというのはあり得ないわけですが、意識して両方を見るというのが、何か効果を生み出さないかと思います。

要は、何とかして、いろんな天候条件で、少しでも面白さを創造できないか? いつも、それなりのセーリングを味わい、良い悪いの評価では無く、瞬間瞬間の味わいに、いかに面白さを創造できるか? もし、どこにでも面白さを創造できるなら、それに越した事は無い。それを何とかしたいものです。それには、自分で決めたある特定の快走という状態を期待しない事から始まるのではないでしょうか? それでも、期待しなくても、条件が揃ったら、必然的に快走を味わえますし。

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