第七十四話 合理主義

現代は効率の時代です。早く、安く、便利で、そういう時代です。そういう時代に何故ヨットなんかに乗るのか?それ自体は合理的でも何でも無い。ヨットは速いわけじゃないし、便利でも無い。そういう観点からして、現代の我々にとって、この選択は合理的でも何でも無い。という事は、本当はヨットに現代の合理的な機能を求めたわけでは無かったのかもしれません。本当は単純にヨットで遊ぶ気分を味わいあたっかったのかもしれません。
でも、我々の頭脳はより便利は良い事だと定着していますから、普通に利便性を求めてしまう癖がついています。いくらヨットであっても、そこに何とか利便性を持たせようと考えるのが、自然の流れという事でしょう。

ヨットはつまり、便利な装備をしながら、できるだけ楽に乗りたい。それは普通の考え方になります。ヨットにいろな装備をして、極端な言い方をすればボタンひとつで、セーリングが味わえる。それが良いと思っています。しかし、昔から見て、現代のヨットは非常に便利になってきました。しかし、それで、昔よりもっと人々は楽しんでいるのだろうか?

元来、ヨットに利便性を求めて来たわけでは無かったが、いつもの癖で、ついつい利便性を追ってしまった。けれども、気がついたら、今一面白くなかった。いや、面白いのだろうが、何か満足できなかった。そういう面もあるような気がします。

そこで、ちょっと立ち止まって、利便性と本来我々が望んでいる事と、じっくり考えてみよう。ヨットに何を求めたのか?面白さとは一体何か?ヨットで仕事をするわけじゃない。ならば、便利である事が果たして、そんなに重要だったのか?

もちろん、便利が不要だとは思いません。しかし、何でも便利なら良いとするのもどうか?良いか悪いかは、自分で判断すれば良い事です。でも、そんな考え方もあるのかなという事は知って損は無いような。

そもそもヨットとは何か?昔と違って、現代のヨットは完全に遊びの世界。仕事をするわけではありません。では、遊びは便利であるべきか?これもノーでしょう。遊びに便利を求めているわけじゃない。楽しさ、面白さの感情を求めていると思います。そして、その上で便利なら良いわけです。あくまで、面白い、楽しいが優先しなければなりません。

つまり、楽しみたいと思う感情と便利である事とのバランスが必要になる。現代において、あまりにも不便な事は一般的には受け入れがたい。でも、そこで便利を追求するが為に、楽しさを失っては意味が無くなる。そこで、どこまでやって、どうやって楽しさをキープ、創造していくか?このバランス、やり過ぎない事を意識しておかなければ、いつの間にか、ボタンひとつで、楽しさを失ってしまいかねません。

これらは、何もすごいハイテク機械にのみ存在するわけでは無く、もっと身近なところにもあります。我々が、無意識のうちに、良いと悪いを分類し、疑う事も無く、受け入れる事があります。そこで問題は、無意識のうちに楽しさを失うという事です。

いつも典型的な例としてあげるのが、飛沫です。波がある時に、飛沫が上がって、コクピットに飛んできます。誰もが、それを避けたがる。嫌なものとして。それは本当に嫌なものなのか?少なくとも、夏の暑い日なら、飛沫も大歓迎、面白さを感じる事だってあります。そういう時はドジャーは嫌なものに変わります。そう思えればですが。

狭いキャビンよりも大きなキャビンの方が良いとは誰もが言う事ですが、これも本当にそうでしょうか?やたらと広いキャビンは時化た時には困りもの。コクピットもそうですね。それに風圧面積も大きくなるし、重心も高くなる。

ある物は、考えようによって、その視点がどこにあるかによって、良い面もあれば悪い面も、両方あります。何が何でも良いという事は無い。すると、どこに視点を持つかによって、採用すべきかそうでないかが分かれてきます。その自分の視点をしっかり認識する事が、自分の面白さを創造し続ける秘訣という事になります。

ヨットを使って、一体何を味わいたいのか?それさえ解れば、あとは創造するだけです。これを失ってしまうと、何の為のヨットなのか?という事になります。私はこれをセーリングとしていますが、セーリングで無くても、例えば、キャビンで過ごすのが本当に好きだという方がおられたら、それが視点になります。旅が本当に好きだというなら、それが視点になります。それがしっかり認識できないと、やたらと便利だけを追求してしまい、結果、何もヨットらしさを味わえなくなる。ヨットらしさが無いなら、ヨットで無くても良いという事になり、やがては、ヨットは放置される。

私の視点はいかにセーリングを面白く味わうか?そこに便利を加味して、いかに楽に、でも存分に、セーリングを損なわないように。それ以外、セーリングを損なうものは、抑えるか不要と考える。そして、飛沫は嫌なものか?と考える。それが、意外と面白いのです。

常識的に嫌のものとされる事、常識的に便利だとされる事、そしてそれらを常識的に、自動的に避けたり、追い求めたりする事、こういう事が気がつかないうちに、本質を見失わせる可能性があります。健康の為にと、毎日ジョギングをする人、便利だからと言って、車で走っては意味が無い。こんな簡単な事には誰もが気がつきます。それは目的が明確であるからだと思います。しかし、これと似たような事をしているかもしれません。

ヨットで何をしたいのか?ヨットという現代においては、あまり合理的では無い乗り物を、最高に便利にして合理性を見出したいのか?それを証明したいなら、最高の便利機械を導入して、最高の楽を味わう事になるでしょう。でも、そんな人が居るとは思えません。本当は、ヨットでしか味わえない、最高のエキゾチックなフィーリングを求めていると思います。しかし、面倒くさい事、不便な事、等が嫌なだけです。これはジョギングの例でも解るように、何の為に、何を求めてヨットに乗るか?これさえ明確なら、過ぎたる事はしなくなるのではないかと思います。しかし、ヨットはジョギングのように単純な目的では無いが為に、ついつい過ぎる事をしかねない。

従って、もう一度、自分の目的を明確にして、どこまでやるか。そういう選択こそが合理的であります。私の思う合理性は、セーリングの醍醐味を忘れない事。その範囲内では便利さを求める。年を取ってきたら、体力も落ちてくる。若い時なら、メインを一機に上げたものだが、今はそうも行かない。そうなりますと、無理をするより、電動ウィンチでも使うのが良い。それでも、セーリングをするという醍醐味が失われるわけではありません。

セーリングの醍醐味は、自然の変化に対して、いかに合わせていくか、その時の感じを味わうものかと思います。このいかには、自分で感じ、考え、操作する。これをしにくくする物、考えなくても自動的にできる物、そういう物は要らない。セーリングとはそういうゲームではないかと思います。ゲーム性が失われれば、当然ながら面白さが失われる。楽をしつつも、最高のセールフィーリングが得られる事が重要かと思います。

目的はそれぞれですから、一概には言えませんが、現代の価値観からして、ヨットという乗り物は合理的な選択とは言えません。では、単純な乗り物では無いというところに、選択理由があります。単純では無いというのは何故か?それが我々が求める目的にあります。それさえ明確なら、ヨットという選択は極めて合理性を持つ事になります。

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