第四十六話 デイセーリングの行方

どこかに行くクルージングは、いつかどこかに着く。しかし、どこにも行かないデイセーリングは、出た所に帰ってくる。どこかよそには着く事が無い。では一体、セーリングの行くへはどこにあるのでしょうか?仮に、毎日、毎日デイセーリングをして、その結果、どうなるのか?

その答えは解りませんが、多分、推測ですが、いかなる場面であっても、セーリングを楽しむ事ができるようになる、幸運なら、ですが。自由自在にヨットを操る事ができるようになっており、集中力も高まり、繊細な神経から、タフな神経まで、その時の状況に合わせて、無風から強風まで、いろんな場面をそれなりに味わう事ができるようになるのではないかと思います。

それらは決して楽しい事ばかりでは無く、面白く無い事も多いに違いない。しかし、与えられた情況をそのままに、何度も言いますが、自然に手は加えられないので、まさしく、そのままに、楽しむのではなく、味わう事ができる。多分、それしか行き着くところは無いような気がします。自然に対しては、完全な受身であり、合わせるという意味では積極的でもあります。しかしながら、普通は無風を楽しむ事など到底できません。強風を楽しむなどできない。でも、何度も、何年もデイセーリングを味わう事によって、ひょっとしたら、全てをそのまま味わう事ができるようになりはしないか、と思う次第です。全ての動きは滑らかで、手足の如く動かし、自分がヨットそのものになる。そこまで行くにはどのぐらいかかるはは解りません。でも、そんな事はどうでも良い。

繰り返し乗って、乗り続けて、どこに行くかは解りませんが、まあ、そんな事はどうでも良い。いつも、その時の状況をそのままに楽しむ事ができれば、こんなに面白い事は無いような気がします。そこには、何の記録も無く、賞賛もありませんが、何か、良い感じがします。

ちょっと乗る、時々乗る程度では楽しさが重要ですが、何年も乗り続けるには、面白さが重要です。面白さは、味わい深い経験、味わいは1回のセーリングだけでは無く、トータルの経験かと思います。出て、風があるならあるなりに、無いなら無いなりに、そのまま遊ぶ事ができるようになるのが理想でもあります。

何も無いが、長年の積み重ねた感触だけがある。それも悪く無いなと思います。どこかに行くだけがヨットじゃない。レースで勝つだけがヨットじゃない。こんな曖昧なセーリングはデイセーリングだからこその味わいかと思います。目的地に行く必要が無い、勝つ必要も無い、そういうセーリングです。味わいだけのセーリング、感覚のセーリングです。

ちょっと今出たら気持ち良いだろうなと思う事があります。それがすべて。多分、想像ですが、経験を積み重ねたら、いつ出ても、それなりの味わいを得てくる事ができるのだろうなと思います。そうなりますと、もしなれたら、完全な昇華です。条件をつけない。宴会もするし、レースも旅もピクニックもするかもしれません。でも、全部、それなりに味わう事ができる。つまり、良い悪いを言わない。評価しない、ただ味わうだけのヨットライフ。

何の気負いも無く、ただぶらっと来て、ぶらっとセーリングして、帰ってくる。今日はこんなセーリングだった。明日はどんなかな?何も達成しないセーリングには、そんな気楽さと味わい深さがある。つまり、目的地を持つと意識は目的地に注がれます。レースに出ると勝つ事に注がれる。でも、セーリングには目的が無いので、セーリングの味わいに注がれる。それも悪く無い。

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