第三十九話 才能

あるオーナーの娘さんに類稀なる才能をお持ちの方がおられます。才能というのは、本人の能力だけでは無く、回りの環境を含めて才能があると言います。もちろん、誰でも逆境はありますので、
それを乗り越える才能も必要です。これだけの才能があると、その才能は一部の人達のものでは無く、才能があればあるほど、より多くの人達のものとなっていく。案の定、15歳にして、日本を離れてしまいました。プロになって、世界で活躍していく才能、それは世界みんなを楽しませる、みんなのものなのかもしれません。本人はみんなの為に精進が必要でしょう。

凡人の私がこういう事を書くのは簡単な事ですが、実は、これは大変な事のようです。外野から見て、あれこれ言うのは簡単ですが、本人、家族、大変だと思いますね。しかし、神様がその子を選んだのですから仕方ありません。これは喜びでもあり、試練でもあります。でも、やっぱり凡人から見れば羨ましいですね。いつか、世界の舞台での活躍を楽しみにしています。

その点、才能の無い私なんかは、お気楽ですね。自分がいかに楽しいかを考えていれば、自分を楽しませてやれば、それで良いのですから。仕事としては、誰でも、他人の満足を得て、お金を頂く。それには精進が必要です。でも、遊びもして良いわけで、遊びの部分では自分を楽しませる事を考えていれば良い事になります。ヨットを遊ぶのに才能は要らないというわけです。

もし、ヨットに才能があったら大変ですよ。自分が楽しんでいるだけでは済みません。他人にも、ヨットの才能を使って、与える事をしなければなりません。そうなると、楽しいだけでは済まなくなります。ですから、遊びなら才能はあまり無い方が楽しいんです。才能があったら、遊びにはしておけなくなります。

という事は、歳を取ってヨットを始める。それでも充分楽しむ事ができます。何しろ、才能は不要なんですから、うまいから楽しいわけでは無く、セーリングしている事事態が楽しい。何かを成し遂げる必要性は全く無いわけです。ただ、多少の勉強は必要です。それから少しづつ、自分の今のレベルから自分の心地良いペースで引き上げていく。それで充分かと思います。

但し、遊ぶという才能は多少なりとも必要です。ヨットに才能が無くても良いのですが、遊ぶには才能が必要です。それは、何でも楽しんでしまう才能です。こうだったら、ああだったら、もっと楽しいのに、では無く、今ある事で楽しむ方法を考える。今が駄目だからでは無く、今の楽しさをもっと発展させる為に、こうする、ああする。それが良いと思います。才能というより考え方ですね。

回りを見ますと、どこどこ行ったとか、日本一周したとか、そういう方がおられる。舵の本を読んでもしかり。でも、自分がそれと同じ事をしたからと言って、楽しいかどうかは解りません。ですから、他人はさておいて、自分の楽しさを追及していく。セーリング、セーリングと事あるごとに言ってますが、もし、そうではなくて、手入れが好きならそれでも良い、キャビンで過ごすのが好きなら、それでも構わない。本当は、自分が好きならそれで良いわけです。自分が楽しいか楽しくないかだけの問題です。何にせよ、楽しい事をしょっちゅうやっていれば、そこには何かが生まれる。人が気づかない何かです。それを楽しんでいるわけで、それで良いかと思います。ただ、あまりにもヨットが、いかなる使い方であれ、使われていないので、その解決方法として、デイセーリングを提唱しているわけです。これなら、誰でもできる方法だからです。

デイセーリングと言えども、しょっちゅうやってますと、やはりそこには何かが育つ。いくら才能が無くても、うまくなる。世界は知らないかもしれないが、セーリングに対しては、深く知りえる。広く浅くという事もありますし、狭く深くという事もある。まあ、無理をせずに、楽しく、面白く。それが趣味的ヨットの薦めです。

ヨットを乗り物として捉えた場合、乗り方にはふたつしか無い。ひとつは旅です。旅はセーリングというより場所に、移動に意識の重きが置かれます。セーリングにおいては、場所よりもセーリングそのものです。いかに走るかです。場所は関係無い。両方楽しんで良いわけですが、本質的にどっちが楽しいか?自分はどっちか?それが乗り方になると思います。つまり、嗜好、それは才能でもあるんです。自分がどっちがより楽しいかは、どっちに向いてるか、つまり、どっちに才能があるかです。そのある方に向かった方がより楽しい。ただ、才能が有りすぎれば、自分だけが楽しむという事はできなくなるだけです。

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