第三十四話 練習

セーリング遊びそのものが練習だと、以前書きました。しかし、これも以前書きましたポイント的セーリングにしても、やはり練習と遊びは違うと感じる方もおられるかもしれません。でも、何事も練習無くして上手くなれる程、世の中は甘く無いし、それが可能なのは天才だけでしょう。でも、天才にとっては、セーリングは面白くも何とも無い。簡単にできてしまうから。

言葉遊びは別としても、練習だろうが遊びだろうが、セーリングを求める行為そのものを楽しめるかどうか?意識的にそれをする方法もあるし、自然に楽しみながらできる人も居ます。でも、できない人も居る。練習嫌いです。ならば、意識的に、練習とは思わず、そういう遊びをするという観点から工夫する必要がある。いずれにしろ、練習無くして上手くはならないし、上手くなるという観点を持たないと、長く続かないかもしれません。

興味があり、好きな行為なら、誰もが練習を厭わない。何も、体力をつける為に、基礎的なトレーニングをしようという話ではありませんし、好きなセーリングを意識的に行って、漫然なセーリングから脱して、意図的に行うという話です。

練習して少しづつ上手くなっていったらどうなるか? 人より速く走れます。しかも、楽にです。楽ですから、自分の感覚にも余裕があります。上手くなって、感知能力も上がり、観察力も上がり、そのうえ技術も上がり、感じる処もより大きくなります。同じセーリングとは言っても違います。既に慣れきったセーリングばかりでは、気持ちがだれてくるかもしれませんが、上手くなれば、気持ちがシャキーンとします。幸い、セーリングでは練習そのものでそれを感じる事ができる。だから、練習も遊びも同じであります。

その上手くなった自分は、自分にしか解りませんが、ゲストを招いてセーリングする時、ゲストは感づく事もあります。ヨットを知らないゲストであっても、何となく感じます。頼もしさとか、余裕とか。
それを感じるゲストは強風だったとしても安心感も感じます。それに、ゲストをより楽しませる事もできる。

練習と言いますと、あまり楽しくないかもしれませんが、意識的セーリング遊びです。意識的であるか否か、それが単なる遊びか練習かの違いかなと思います。意識が違うわけですから、楽しさも違います。面白さでありますね。でも、練習をしていきますと、自分が上手くなっていくというのが解る時が来ます。それを感じたら、実に面白くなります。逆に、そこまで行か無いと面白さに達しないかもしれませんね。やっぱり練習です。

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