第九十三話 水戸黄門的価値観

ご存知、水戸黄門。昔、子供の頃は、良く見てました。ストーリーはほぼ毎回同じようなものでしたが、でも、面白かったです。解っちゃいるけど面白い。そう言えば、当時のプロレスなんかも同じかな? 悪役が大暴れして、でも、最後は逆転勝ちするんです。その価値観が日本人に受けたし、それは今でも同じではなかろうか?

水戸黄門の構図は、正義の味方。権力者は悪で、庶民が虐められて、最後には、それを黄門様が助ける。そういう構図です。それは今でも、そのまま通じていると思います。我々一般がそういう価値観を持ちますから、マスコミもそれに合わせる事で受けを狙う? 何かあると、権力者、政府、大企業、大きなものを悪として叩けば、みんなには受ける。真実はどうかなんて、二の次みたいに見えない事も無い。

でも、そういう価値観はそろそろやめにした方が良いのではなかろうか? 科学的に、理論的に調査したうえで、事実で判断する。情緒で判断すると、間違う事もあります。科学だって完全では無いのに。少なくとも、より正しい判断をするには、科学的であり、理論的である必要はあろうかと思います。その方が、より現実的な判断ができるのでは無かろうか?。

欧米は、ずっと以前、宗教から科学へと移行してきた。だから、科学的根拠、理論が重視される。それは、多民族、多宗教、多言語のうえにおいても合理的であったと思います。みんなを納得させるには、それが合理的だったのだろうと思います。しかし、日本は、単一民族で、ひとつの言語、宗教はごちゃまぜで、権力を持つわけでは無い。しかし、単一民族、単一言語のせいか、共通する情緒のようなものがある。科学の導入と進化においても、情緒はかなり影響力を持つ。

だからかもしれませんが、情緒的に左右されやすいのかもしれません。だから、水戸黄門的情緒が、続くのかもしれません。だから、理論的、科学的考察が不十分な状態で、ああでもない、こうでもないと日本中がムードで騒ぐ。マスコミも含めて。

今なら、原発問題、消費税、TPP 等々、 本当の処はどうなんでしょう? 科学的/理論的にどうなのかという議論が足りないのではなかろうか? ある一定のムードが根底には既にある。それは水戸黄門的価値観と言いますか、情緒的な価値観だろうと思います。それに沿って、ムードを形成していき、盛り上げ、それが民意とされる。そういうのを続けていって良いのだろうか?情緒的なムードで現実を判断して良いだろうか?

科学と理論とでしっかり考察して、そして、そのうえで、日本的情緒も含めて決める。そういう価値観が一般の我々に必要なのではなかろうか?一般が変われば、マスコミも変わる。そうしたら政治も変わる。我々がそうだから、政治もそうなるんだろうな? もちろん、日本的情緒を悪と言っているのではありません。むしろ逆で、重要である事には違い無い。でも、です。もう少し、科学的、理論的考察を増やした方が良いと思います。ちゃんと使い分けた方が良いのでは無かろうか?

ところで、ヨットもセーリングも、科学と理論を積み重ねる事が必要です。そのうえで、感覚を重視する。感覚重視と言っても、感覚だけでは走れない。たいした事は無い。天才じゃ無い限り。でも、まあ、ヨットはあくまでプライベートですから、他人に迷惑をかける事はありません。しかし、ムードに流されっぱなしでは、なかなか面白さには到達できないのではなかろうか?

やっぱり、科学と理論を身につけて、そのうえで、解ったうえで、気持ちの問題として、ああする、こうするなら良いんだろうと思います。時に、気持ちを優先させる事もある。でも、解ってやるなら良いんだろうと思います。

それに慣れると、科学と理論が面白くなるかもしれません。そこに情緒が加わって、もっと面白くなるかもしれません。情緒の行き詰まりを、科学と理論が解く事もあると思います。どちらか一方では無く、全部を上手に扱う事が必要でしょうね。科学と理論だけが行き過ぎると殺伐としてきます。情緒が行き過ぎると、ムードに流されて正しい現実が見えなくなる。バランスですね。その為にも意識的である事が重要かなと思います。

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