第三十六話 ヨットは楽器のようなもの

クルージングにおけるヨットは乗り物です。どこかに行く目的ですから乗り物です。でも、セーリングをするなら、それは単なる乗り物とはちょっと違う。

この章に入ってから、毎回、音楽を末に紹介してきましたが、ふっと気がついた事があります。音楽の好き嫌いはあるでしょうから、ここに紹介してきました曲が好みに合わなかったとしたら、申し分けございませんが、それとは別に、音楽の目的とは何だろうと、ふっと思った次第です。

それで、私の結論は、音楽には特定の目的は無いという事です。何かの目的があるとするなら、それは自分が好きで、聴いて良い気分になれるという事です。逆に、嫌いな音楽なら、聴きたくは無い。ただ、それだけです。損も得も無く、何かの目的も無く、ただ、そこに浸る。

音楽の力は、そこに浸るだけで、人をいろんな気分にしてしまうという事ではないかと思います。速いテンポ、遅いテンポ、リズム、音色、メロディー等々で、人の心に入って、いろんな気分を引き出してくる。それが音楽なのではないかと思います。

気がついた事は、これはセーリングの在り方と同じじゃないか、という事です。何も目的も無く、ただ浸る事によって、いろんな気分を引き出します。ただ、CDを聴くのと違うのは、自分自身が演奏者である事です。それと、伴奏であるところの、風をコントロールできない事です。つまり、テンポを変える事ができない。その日のテンポに、合わせねばならない。

でも、目的として、セーリングは音楽と同じではないかと思います。その日の気分によって、曲を選ぶ事ができるのに対して、セーリングはそうは行きません。好きな風、嫌いな風、容赦がありません。でも、自由自在感を携えれば、セーリングという全体を味わう事ができます。

ヨットは楽器と同じです。そしてセーリングは音楽を奏でる事と同じです。セーリングを、自分が選んだ楽器で、プレーしていると想像してみて、その日の音楽ならぬ、セーリングを即興的に作る。そういう行為です。そして、CDのように記録は残りません。その日はその日で終わります。良い演奏をしたいというのと同じで、良いセーリングをしたい。でも、セーリングそのものに何ら目的は無く、その日のセーリングに浸る。

目的が無いから良いのかもしれません。もし、目的があったら、それを達成したかどうかが気になります。でも、そんなものはありませんから、その日、できる事をやれば、それで十分。まだまだだなと思ったら、上手くなれば良い。そうしたら、また違うセーリングを味わう事ができます。

音楽に終わりが無いように、セーリングにも終わりがありません。一生プレーを楽しむ事ができます。音楽をプレーしている最中に、音楽以外の事を考えません。ですから、セーリング中には、セーリング以外の事は考えず、良いプレーに専念する事が重要かもしれません。

音楽は演奏者の他、聴き手が居ます。セーリングでは、ゲストが居るならゲストが聴き手、居ないなら、自分が演奏者と同時に聴き手でもあります。セーリングしながら、演奏者として見る、聴き手として見る、どんどん変わります。

やっと、あるイメージができました。デイセーリングは音楽の演奏と同じで、ヨットは楽器と同じです。いろんなセーリングをプレーし、味わう。目的があるとしたら、それではないかと思います。良い演奏をしたいなら、その楽器に精通しなければなりませんし、手入れもしてやらなければなりません。そうしないと、仮に腕があっても、良い音ならぬ、良いセーリングができないからです。

セーリングは音楽です。ヨットはその為の楽器です。良い楽器で、良い演奏ができれば、鳥肌が立つような事もあります。その日の風に合わせて、即興演奏です。演奏していると思えば、ただ動いているだけでは不十分です。それは気持ちの殆どが聴き手側に回っている。演奏者としての気持ちが少ない事になります。理想としては、半分づつとかでは無く、100%演奏者になり、次の瞬間には100%聴き手になり、また、どんどん変わる。両方やらねばなりません。演奏者のレベルが上がれば、同時に聴き手のレベルも上がります。良い演奏が出来たら、聴き手も良い気分です。

ヨットを自由自在に操り、その日の風に合わせて、自由自在に即興的にセーリングを奏でる。それは最高の気分ではなかろうかと、憧れています。その最も近い処に居るのがデイセーラーだと思っています。もちろん、吹いても、吹かなくても、目指すは自由自在です。

今日の一曲 マル ウォルドロン Left Alone

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