第四十一話 セールがある別荘

ヨットとみなすか、家とみなすかは大きな違いです。動く別荘とか言う事もありますが、家とみなすと
家の中は快適に過ごせるように考えるのが人情です。でも、快適にしようと思えば思う程、ヨットとしての存在が薄くなってくる。そんな事はないと思われるでしょうが、事実です。キャビンを重視すれば、それはヨットから別荘に変化して、ヨットとしての使い方が薄れてきます。

ヨットをヨットとしてみなせば、帆走はどうか、艤装はどうか、乗り心地はどうか、取り回しのし易さはどうかと考えます。そうやって考える事がヨットをヨットたらしめると思います。ヨットは帆走して楽しむものとして考えるからです。そして、その次に、セーリングの合間にキャビンを使うという事になります。ヨットをヨットとしてみなせば、ヨットをヨットとして遊ぶ事になりますが、ヨットを別荘としてみなせば、ヨットはヨットから離れて家になる。

家はあくまで自宅の方が快適です。それに自宅と同じになっては、せっかく求めた非日常性が失われる。極端な言い方かもしれませんが、多少、不便な方が良いのです。そこに自分なりの工夫が加わり、少しキャンプ気分で、非日常性を味わうぐらいの方が良い。自然をできるだけ取り入れた方が良い。その方が快適さは多少減じられても、遊び心は高揚します。

それにセーリング程、非日常性はありません。快適なキャビンの前に、いかにセーリングを楽しむか、不安定な波の上を、不安定な風に向かって、自分の腕で駆け抜ける快感は日常では味わえない別世界です。本来はそれを求めたはずです。非日常性を求めたはずです。そこにこそ夢がある、これ以上の夢は無い。でも、キャビンを見た途端、人はキャビンに惑わされ、本来の遊び心を忘れてしまった。心の躍動感を求めなくなって、便利と快適ばかりを追うようになった。その結果が、使われなくなったヨットです。人は便利な物、快適な物を求める傾向にありますが、遊びに関しては
快適だから、便利だからというのは、必ずしも心の躍動にはならないという事です。快適だけれどエキサイティングでは無い。果たして、求めた物は便利さだったか、快適なキャビンライフだったか、それとも何だったか?

映画を見て、主人公が快適な空間で、過ごす。安定と便利があって、例え、ヨットに乗るにしても、快適なばかり、そんな映画のどこが面白いのでしょうか。映画のような冒険とまではいかないにしても、自分なりの工夫と、アイデアがあり、多少の冒険があり、エキサイティングなセーリングがある。そして、合間にある緩和、そのメリハリこそが、遊びの極意ではないでしょうか。これも極端かもしれませんが、遊びは快適、便利であっては面白く無いんです。日常と同じであってはいけないんです。非日常を求めながら、日常とできるだけ同じにしようと努力して、結果、飽きてしまう。

ちょっとだけ、冒険性を求め、ちょっとだけ便利さを我慢し、いかにセーリングをするかに意思を働かせていくと、ヨットは本来のワイルドを取り戻し、蘇ります。それと同時にオーナーもちょっとワイルドさを取り戻し、心の躍動感がわきあがってくる。

男はロマンを求める。ロマンは冒険です。自分なりの冒険を演出しながら、心躍る遊びをしていく。そこには損得も無く、駆け引きも無く、ただ感性に浸る。人は生きるエネルギーのチャージはそうやって生まれると思います。それは快楽ばかりでは無いかもしれませんが、快感であります。

次へ      目次へ