第六十三話 虚構の世界


      

世界的ベストセラーとなったサピエンス全史によると、サピエンス(現代人)が生き延びる事ができたのは、虚構をでっちあげる能力とそれを信じる能力があった事によるらしい。つまり、他の種、例えばネアンデルタール人とかはそれがなかった。いわゆる、知的水準の高さ故では無いらしい。

想像、でっちあげ、フィクション、これらは、より多くの人達が信じれば、それがルールとなり、共通の価値感を生み出す。これに寄って大グループ化し、情報を共有し、協力し合えば大きな力となる。一方、目に見えるものしか考えられない場合は、行動範囲内にならざるを得ないし、よって小規模な集まりにしか過ぎなくなる。力の差は歴然という事になります。この事がサピエンスを現代にまで生き延びさせたのだそうです。

つまり、現代は虚構の世界という事になります。虚構と言うフィクション、でっちあげによって結びついています。あらゆる事実や物体や現象には、特有の絶対的意味は無く、我々が勝手に意味付けし、解釈しているに過ぎません。但し、重要な事はみんなが信じる能力を持っている処にあります。例えば、みんながお金の価値を信じているからこそ貨幣経済が成り立っています。特に、現代貨幣は金と交換できる兌換紙幣でも無いのにです。まあ、金の価値も突き詰めればフィクションに過ぎないわけですが。

ところで、最近、サンマの漁獲量が激減したので、高級魚扱いになってしまうとの話、まさしく、サンマ自体は変わらないのに、庶民的になったり、高級になったり、サンマは気にしていないだろうが、ただ、我々の考え方次第で、どうにでも世界は変わってしまうという事になります。つまり、社会全て、政治も宗教も、フィクションという事になります。

科学はフィクションを事実に替えてきましたが、それとて同じ事。例えば10マイルの距離を5ノットでセーリングすると2時間で到達する。だから何? これだけでは何も意味を成さないが、サピエンスはそれが遅いとか速いとか、いわゆる虚構を論じる事になります。何故なら、どっちでも無いし、どっちでもある。つまり、世界はフィクションなのです。しかし、重要な事はそのフィクションこそが面白さに他ならないという事だと思います。

さて、セーリングは面白いと誰もが信じない事には、広く普及する事はありません。そのストーリーをどうやって信じ込ませるか?このTALKも、そんな試みと言う事になるのかもしれません。しかし、フィクションとは言っても、それを信じ、実行に移した人だけがセーリングを楽しむ事ができます。これはフィクションでは無く、事実です。信じ無かった人は、この面白さを得る事はありません。

と言う事は、我々サピエンスのあらゆる感情、幸も不幸も、喜び、悲しみ、怒り、興奮、妬み、嫉妬、等々、全てがこのフィクションに基づいている事になります。だとするなら、どういうフィクションを想像し、信じるかで、どうにでも変わってしまいます。しかしながら、陸上生活では、この人工フィクションがあまりにも多すぎる。ルールを守る、相手も守ると期待します。だからストレスとなりますが、一方、それ無しでは秩序を保てない事にもなりますから、仕方ないんですね。

ところが、海という自然のルールで遊ぶという事は、人工的フィクションをできるだけ外した処で遊ぶ事を意味し、我々が、本来の生物としての命を活性化させる事になるのではないでしょうか?セーリングは自然のルールの中で科学的アプローチを試みる行為です。その事実の行為から得た感覚はフィクションでは無く、自分独自のフィーリングではあるが、しかし、それが自分自身にとっての真実なのではないかと思います。

遊びだからこそ自分の真実を追う事ができ、自然の中だからこそ、そのルールは守ろうとするのでは無く、受け入れざるを得ないという事を、本能的に悟っています。例え思い通りにならなくても、人は癒されると思います。それにはセーリングが一番です。何故なら、虚構では無いからです。あるのは、自然のルールと科学的事実と、自分自身の真実だけしか無い。ストレスなんか溜まりようが無い。

理想のセーリングは、その日の風をあるがままに楽しめるようになる事です。吹く時はその様に、吹かない時もそのように、そして、科学的アプローチを試みて、その感覚を味わう。ここまで開き直ったら、ストレスなんか感じようがありません。

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