第七十二話 上質を少し


      

最近感じる事がひとつ。それは量より質という事です。旅先でたくさんの料理が出て来るより、質が良くて、おいしいものを少しと思う様になってきました。また、一度にあっちこっち行くより、気に入った処でもっとゆっくり味わいたい。あらゆる処で、量的なものより、そういう質的な方に、自分の感覚が向かってきた様に思います。歳のせいでしょうか?

先日見たテレビに寄ると、昔のレコード盤が盛り返してきているそうです。デジタル化の際、人間の耳には聞こえない周波数帯はカットされたそうだが、ある音楽関係者が嘆いていましたが、そのカットされた部分があるか無いかでは、やはり音の質が違うそうだ。それは理屈と感性の違いでは無かろうか?聞こえない周波数帯はカットしても良いはず。理屈ではそうだ。

大抵の事なら理屈で間に合うのかもしれませんが、感性が繊細さを求めると、理屈だけじゃあ無いのかもしれません。これから、ますます科学が発達し、AIの時代になり、我々は身の回りを理屈で処理しなければならなくなります。だからこそ、どこかで自分の感性を育てる事は、もっと大事になるのではないでしょうか?

シングルでセーリングすると、無心になれる事があります。それは何も考えずに、感覚だけになっています。こうしよう、ああしようとか考えない。そうすると、その日のセーリングに浸って、味わう事ができる。そういうセーリングも良いもんです。言葉にはできませんが、味わいの良し悪しというものでは無く、ただ味わう。そこに深さを感じます。

一方、頭を使って、理論的な操作をしていく。これも面白い。両方を使い分けていきたいと思います。このふたつは互いに相乗効果をもたらすと思います。感覚は理論を育て、理論は感覚を育てる。ただ、我々のセーリングの最終目標は感覚を育てる処にあるのではなかろうか?自然に感じる事が多くなればなる程、何が何でも快走をとは思わなくなる。その日のセーリングをじっくり味わえる。それに応えるのは数値では無く、質なのではなかろうか?ただ真っすぐ走るだけのセーリングに、滑らかさを感じたら、実に気持ち良いです。それは人の感性とヨットの質の調和ではなかろうか?最後のヨットには、是非、質というものを考慮されては如何でしょうか?

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