第38話 便利になればなる程離れていく

世の中便利になれば、それを多くの人達が享受できる。便利になればなるほど広がるもの
である。車はかつては無かったものが次から次へと装備され、その普及たるやすごい物が
ある。全ての車にはエアコンが搭載され、パワーウィンドウ、パワステ、シートのアジャスター
からGPSまで、それらがさらに購買者を魅了している。ところが、ヨットを見てみるとどうだろう。
確かに便利になってきた。かつては、セールを何枚も持ち、風に合わせてセール交換するのが
あたりまえだった。今や、ファーラー1枚で全てをこなす。オートパイロットが付き、メインファーラー
が付き、スピンに代えてジェネカー、GPSさえあればどこでも行ける。そんな便利なヨットである
のに、何故だろうか。こんなにヨットが動かないのは。これは不況のせいばかりでは無いだろう。
その原因は便利さにあるのではにだろうか。

本当ならば、便利になった分、それがより多くの人達をひきつけねばならない。より簡単に動かせ
るようになった。だから、もっともっと多くの人達がヨットを始めるようになるのが普通ではないか。

便利で高性能になった車は、誰でも簡単にどこへでも行けてしまう。快適に。道路は整備され、高
速道路が日本中に配備され、簡単に行きたいところに行ける。ヨットがまだ大変だった頃、セーリ
ングするにはクルーを必要とした。自分の位置を出すにも、ルートを決めるにも、それなりの経験
を必要とした。ところが、今やクルーを必要としなくなったし、GPSは簡単に位置やルートを示して
くれる。そこらを走るのに大変だった頃は、それだけに、そこらを走るのが楽しかったわけである。
ところが、簡単に走れる今、そこらを走るのは退屈になった。

簡単にセーリングできるようになると、遠くに行きたくなるものである。行った事が無いところに行き
たくなるのは当然である。車の時と同じように。ところが、ヨットの場合はそうも行かなかった。時間
が無かった。おまけに、高速道路があるわけでも無いので、いつも快適とはいかず、時化ることも
ある。行った先に駐車場が整備されているわけでも無いので、どこにどうやって停泊して良いの
やら。潮流もある。風の強さも一定では無い。そんな未知のものには相変わらず挑戦しなければ
ならない。そういうわけで、遠くに行くのは簡単では無い。ところが、便利になった分、そこらをセーリ
ングするのは退屈に感じてしまう。だから、仲間と行くしか楽しくない。酒でも飲むしかない。便利
になればなる程、近場のセーリングは退屈になってしまった。だからといって、昔のように、セール
を替え、コンパスや海図をにらむ気にもなれない。まして、クルーがどこに居る。

便利で高性能になったら、高速道路が無いとどこへも行けない。もし、海に高速道路ができて、誰
でも快適で、駐車場が整備されれば、これはすごい事になるだろう。でも、そんなことにはなりはし
ない。便利になって、乗らなくなるのはヨットぐらいのもんじゃないか。

ヨットを本当に楽しむには二つの方法がある。ひとつは不便である事。不便であれば、人間の工夫
の介在が大きくなる。そうなると、自分が動いた分、工夫した分、その見かえりが与えられる。それが
楽しくなる。つまりは不便を楽しむという事である。もうひとつは便利を享受しながら、機械が介在でき
ない部分に自分の工夫を入れる事である。つまりは、セーリングする事である。昔も今も、舵をコント
ロールし、セールをトリミングする事には何ら変化は無い。それによって、与えられるものも大きい。
つまり、全てがオートマチックになったら、究極の便利さが実現したら、ヨットはただの移動手段になって
しまう。移動手段になれば、どこか遠くに行くしか方法は無いのである。そして、人が楽しさを感じるの
は自分がどれだけの事をしたか、そして、それに対する反応がどうだったかを、どのように感じるかである。

つまり、不便を楽しむか、セーリングを楽しむかである。どちらも、人間の工夫がある。工夫があるから、
自分の内側に楽しみが沸いてくる。便利になると楽しみを内側に見る事が難しくなる。だから、楽しみを
外側に探す。外側に探して、遠くへ行きたくなる。遠くへ行けないなら、ただ退屈なのりものとなる。

便利は我々には欠かせない。でも、必要以上に何でも便利にするのはやめよう。それだけ楽しくなくなる。
照明が無いヨットなら、夜間にランプを灯したらどうだろう。不便で嫌になるだろうか?エアコンが無いなら、
風をうまく船内に取り入れる工夫をしたらどうだろう。近場を、セールをトリミングして真剣に走ってみたらどう
だろう。不便さや自分が自ら工夫したり、動かなければならなかったり、そういう範囲が多ければ多いほど
本当は楽しさが内側からわきあがってくるものではないかと思う。不便を排除しようというのでは無く、不便
をどこまで受け入れられるかで、楽しみは多くもなり少なくもなる。不便だから楽しいわけでは無く、不便を
どのくらい受け入れられるかが楽しみの範囲となるのではないかと思う。

最高の喜びは、自分の中からわきあがるものであるなら、自分がどれだけのことをしたかにかかっている。
便利という外部の物は油断すると、自分の中の喜びに蓋をひとつづつ閉めていることかもしれない。

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