第十一話 浮世を離れる

現実を見ればいろんな事があります。良いことばかりならまだしも、面倒な事も多い。しかしながら、その浮世からなかなか離れる事ができません。嫌な事、面倒な事、そんな事がたくさんありますが、それなのに、そこから離れる事はなかなか難しいようです。

引退したら、遠くを目指して、クルージングの長い旅に出よう。そういう夢をお持ちの方は多い。しかし、現実に引退の時を迎えても、なかなか浮世を断ち切る事はできない。それも、楽しい事ばかりだったなら分かりますが、そうでも無いのにです。そうでも無いからこそ、引退したらと思うのかもしれません。でも、やっぱり断ち切るのは難しい。慣れ親しんだ世界から、離れる事は難しいのかもしれません。

ところで、我々が何者であるかは、どうやって決めるんでしょうか?例えば、自己紹介をする時、名前を言いますが、大抵は、何々会社の誰々ですとか、仕事は何かとか、そういう紹介の仕方は多いものです。名前だけでは、どこの誰だか解らない。つまり、我々は、自分のアイデンティティーを仕事に置いている。そういう事が多いのかもしれません。それで、引退しますと、アイデンティティーが無くなる。アイデンティティーが無くなると、どうしたら良いのか解らない。

まだ、引退した事が無いので、実際の処は解りませんが、でも、多くの場合で、なかなか浮世を離れて、もちろん、完全に離れる事はできませんが、過去と離れて、新しい浮世に切り替える事は、なかなか難しいようです。だから、引退前に考えていた夢を、なかなか実行できない事もありそうです。

これは、どうやって割り切るかという問題だと思います。引退しても、どこかで社会と繋がっていたいというのが普通かもしれません。もちろん、誰も社会から離れる事はできないのですが、どうしても過去の仕事と繋がるような何かに繋がろうとします。それが最も親しんだ、既に知っている世界だから。しかし、それが、遊べない理由となるのかもしれません。

仕事にアイデンティーを得ても、遊び、例えば、ヨットマンである事にアイデンティティーを得られない。それは、仕事の方が、遊びよりも上位に考えるからではないでしょうか?

海外の話ですが、仕事もせずに、ちゃんと暮らして行けるのなら、それは一種の自慢でもある。そういう話を聞いた事があります。昔ですが、実際にそういう人に会った事もあります。あるスイス人、もう50代半ば過ぎでしょうか、生まれて此の方、一度も仕事をした事が無いとか。ヨットで、日本にクルージングに来ていた人です。もちろん、結婚もしていて、大学生の子供も居るとか。そんな人が居るんですね。余談ですが、ある方が、スイスのその方の自宅に後日遊びに行ったそうです。家はお城みたいだったとか。

アイデンティティーを仕事に見出すので、遊ぶ事ができません。でも、一応仕事現役の時は、自己紹介する時、仕事の事を言えば簡単なので使いますが、でも、本当は、自分のアイデンティティーをどこにも見出さないでも平気なら、自由自在の人生になるのかもしれません。自由自在になるという事は、割り切るとか、そういう事すら頭に浮かんでこないのかもしれません。だからこそ、自由自在なんですね。自由な人は自在に遊べます。自在にいろんな事ができる。割り切れるかどうかと考えているのは、不自由だからですね。

せっかく引退するなら、その後は、自由自在を目指しても良いんじゃないかと思います。ですから、引退したら、ロングクルージングに行くぞ、では無く、自由自在になるぞであります。だからと言って、浮世離れしているわけではありません。新しい浮世に切り替えただけです。そうしたら、クルージングでも、何でも夢は叶うのではないでしょうか?つまり、過去の浮世を断って、自由自在という、新しい浮世で暮らす。そうしたら、人生、少なくとも2倍は楽しめるのではないでしょうか?

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