第五十九話 自然の驚異

東北地方の地震と津波は、新ためて自然のパワーのすごさを感じました。延々と築いてきた物を一瞬のうちに無にしてしまうパワーにおいては、我々の弱さを感じます。

我々は、何でも無い時、自然のパワーに驚嘆し、自然の美や営みに一種の賛美の念を持つ事があります。自然が作った洞窟や湖、そういう物に感激したりします。自然が作った芸術だとかに感激したりします。しかし、ひとたび、それが人間に対する脅威である時、それは悲劇となり、恐怖を感じます。

こう言ってはなんですが、自然は自然の理由があって、ただ変化しているに過ぎない。それを我々の都合で、賛美したり、恐ろしがったりします。その今美しい自然美において、かつて、そこに居た人類の悲劇であったかもしれません。人間の判断は実にいい加減なものなのかもしれません。

自然だけには逆らえない。小さな部分では人間の方が自然に脅威を与えているのでしょうが、しょせんは敵わない。賛美もせずに、脅威ともせずに、ただ、自然をエネルギーの変化として見るべきなのかもしれません。東北地方の方々には怒られるかもしれませんが。

だから、本当は自然のパワーから身を守る為に何かをするというより、いかに調和するかという事が必要なのかもしれません。どうやるかまでは解りませんが、何かそういう気がしないではありません。自然を守るとか、壊すとか言うのではなく、いかにしたら調和できるのか?

セーリングしますと、そういう事が当たり前の世界です。強風には勝てない。どんなに強いハルを作って、どんなにスタビリティーを上げようとも勝てないから、セールをリーフして調和しようとします。ある程度までは抵抗するわけですが、抵抗は利用という事ですが、それ以上なら、合わせようとします。そこに人間の知恵が必要なのかもしれません。

いつも、自然の恵みを得ながら、時に恐怖を感じる事もあります。どんなに防御をしても、それ以上のパワーが来たら、どうしようも無くなります。という事は、いつか誰かが、もっとすごい何かを発明してくれるかもしれませんが、多分、それでも自然のパワーには敵わないかもしれません。とするなら、我々ができる最大の知恵は、協力し合う、助け合うという事かもしれません。

社会主義も無く、資本主義も無く、キリスト教も無く、イスラム教も無く、仏教も無く、ありとあらゆる主義が無く、協力し助け合うという事が必要なのかもしれません。助けてくれるのは神でも仏でも無く、人間同士の助け合いになる。こういうと、また、いろんな人から文句が出るかもしれませんが?

あるひとつの主義を持つと、他の主義を排除しかねません。セーリング主義を持つと、クルージング主義やレース主義を排除しかねない?臨機応変に、主義では無く、ただそこを楽しんでいるだけ。どれが一番でも無い。各要素のそれぞれに楽しさがある。遊びだからこそ、そういう事が解ります。そういう他人の楽しみ方も解ります。

でも、人間は何にでも順番をつけたがる。競争が好きなんですね。それによって、自分の価値を確認したくなります。その順位が、その人を鼓舞する事にもなるとも言います。でも、それって、上位の人達だけです。その下には多くの順番があります。もし、全てが遊びなら、他の主義さえも、互いに許せるのかもしれません。という事は、人生は遊びである、ゲームであるという事が必要になってきます。たかがゲームですからと。

ゲームに勝った人や国は、負けた人や国を助ける。そしてまた、次のゲームをする。そういう感じでしょうか?理想論かもしれません。でも、その理想が無ければ、舵は取れないかもしれません。
ゲームだからこそ、そのゲームを楽しむ事ができるのかもしれません。誰かが言った、人生はゲーム、逆に、ゲームにしないと人生は楽しめないのかもしれません。

そこで、ヨットはゲームです。セーリングはゲームです。というと誰もが解りやすい。でも、人生はゲームですと言いますと、そうかもしれないが、でも?となります。

今日、人間同士、国同士で格差が拡大しています。勝者と敗者の格差。勝者は必要以上に持ち、敗者は必要さえも満たされない。敗者は再びゲームさえできなくなる。そこで、勝者は敗者を助ける権利を持つ。それを行使する事によって、勝者はもう一度ゲームを楽しむ事ができます。理想論ですが。でも、今回の災害では、いろいろ考えさせられます。我々は究極的には勝者敗者では無く、ただ、変化の目撃者なのかもしれません。勝者、敗者と分けている場合では無いのかもしれません。目撃者であり、ゲームのプレーヤーでもある。ゲームは続けた方が良い。ならば、助け合う、協力し合うという事が必要なのかもしれません。

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