第十話 意識の違い

車を運転しますが、別に車を走らせる事に面白さを感じたりしていません。自由に行きたいところに行ければ良い程度です。まあ、それでも、日常の運転において、加速したい時に、ひゅんと出るなら良いが、もたもたしていると何だこれは、と思う程度。それと多少の見た目も気にします。
特別な思いはありません。

車は仕事で必要、生活に欠かせない。だから車に乗ります。でも、好きな方は、同じ車であっても、見方が違う。車に求める物が違います。それは意識の違い。ですから、足回りとか、ブレーキとか、いろいろ見るところが違います。それは彼らにとって、車は単なる足代わり以上の魅力を感じておられるからでしょう。そこに面白さを見出したいからだと思います。

ヨットはと言いますと、単なる足代わりとはなりません。足代わりなら、他の交通手段の方がはるかに優れています。でも、あえてヨットを選ぶというのは、そこに何らかの面白さを得たいから。そこに尽きます。ですから、何でも良いわけじゃない。自分の欲求を最も満たしてくれるヨットはどれか?
そういう事になります。これは意識の違いです。

意識がすべてを左右する。マンションが良い人、一軒屋が良い人。家は賃貸の方が良いと思う人、持ち家が良い人。車も、服も、仕事も遊びも、全部意識次第。どれもが意識次第で、正しいものは無く、間違いも無い。

でも、遊びに関しては、生活に必要があってするわけではありません。してもしなくても良いわけですから、それをするとなりますと、そういう意識を持ったわけですから、必要があってするわけではありませんから、そこに何らかの意識があります。何かを求めたわけです。足代わりとして求める人は居ません。多分、別荘代わりも無いと思います。ついでに別荘にもなると考えるかもしれませんが。やっぱり何かがあると思います。

その何かを満たしてやるのが遊びの目的です。ヨットを敢えて選んだ理由は何だったのでしょうか?ボートじゃなく、ヨットです。エンジン音も無く、風で走るヨット。ヨットの最大の特徴はそれでしょう。足代わりなら、ボートの方がまだ良い。

近場へのクルージングは、エンジンで行く事が多い。それはそれでも良いと思います。ある程度、到着時間の予定をたてる事ができます。しかし、普段、どこかに行くクルージングでは無い時、そういう時はセーリングを楽しむ。それもできれば、いろんな操作をして、反応を見ながら、それを楽しむ。

或いは、1日で走る距離を短くして、エンジンでは無く、セーリングで行く。その行程の一部でも、セーリングを楽しむでも良いかと思います。

そういう事を意識しますと、セーリングが意識に上がりますと、セーリングでの面白みを得たくなります。ただ静かに、エンジン音無しでという気持ち良さは、残念ながら何時間も続くわけじゃない。
それで、セーリングをより面白くという意識に発展していけばいいかなと思います。

これは私の意識であります。みなさん、それぞれに意識があり、何故ヨットを選んだのか? 選ぶのか? ヨットに何を望むのか? そういう事を、あらためて考えてみても良いのではないでしょうか? ヨットのどこが好きなんでしょう?

それを思い出せば、今後の使い方をあらためて検討しなおして、今後の役に立つようにする事ができるのではないかと思います。誰に強制されたわけでも無く、自発的な行動として始めたわけですから、そこに思いがあったはずですね。最初の思いから、変わってきたかもしれません。しかし、それでも、何らかの思いがあるのではないでしょうか?もし、それが無ければ、ヨットはやれませんね。

そうだ、旅に出ようと思った。快走したいと思った。いろいろありますが、もう一度、その思いを確かめてみてはいかがでしょうか?

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