第四十四話 性分

人にはそれぞれ性分というのがありまして、これは多分、この世に生まれてきた時に既に持ち合わせた、基本的な性格なんだろうな〜と思います。その後、成長につれて、環境によって変わりはするものの、その基本に違いは無いのではないかと思います。

ヨットを好む性格もあれば、ボートを好む正確もあります。メインテナンスが好きな人も居れば、乗るだけの人も居ます。大雑把な方、緻密な方、いろいろありますから、面白い。みんな同じでは無いし、同じなら気持ちが悪い。

世の中には、損得もありますし、価値観も違いますから、同じ目標を持つにしても、到達の方法が違う。要は、自分の性分にあった方法で、目標への到達までのプロセスを遊ぶ事、それが面白い方法であると思います。

しかし、それも、何を経験してきたかで、その影響で基本は変わらなくても、ニュアンスは変わってきます。それも含みながら、いつも変化しながら、自分スタイルを楽しむ。遊びというのは、自分自身を確認しながら、自分のスタイルを創りながら、自分を遊んでいるのかもしれません。何しろ、世界は、自分と自分が解釈した世界しかありません。

昔、世界は自分の為にあると書いた事を思い出しました。自分自身が世界と対峙する。それが人生であり、遊びでありますね。世界と言っても、地球の反対側の世界では無く、自分の身の回り、興味の範囲、知っている範囲。

ある環境があって、自分の性分があって、それをどちらも観察して、そこから何かを生み出します。どんな環境なのかも自分の性分が勝手に解釈をしますから、基本は自分の性分しか無いのかもしれません。

強気、弱気、いろんな感情があり、それによって環境を解釈し、それによって、何かをする。自由にしたい事をすると言いましても、環境によって影響を受け、自動的に反応します。どんな性分かで反応の仕方は違いますが、ほとんどオートマチック的に反応します。考えてみましたら、これは自由ではありませんね。言い方を変えれば、環境の奴隷のようなものとも言えます。

つまり、どんな環境になると、自分がどう反応するのか? そこに自由は無い。だから、雨が降れば、風が無ければ、と環境次第であります。ですから、環境を都合の良いように変えようと努力をしますが、変わらないものは変わらない。

そこで考えました。本当に遊ぶとはどういう事か? いろんな環境の変化において、自分の感じ方、何を考えるか、等々を冷静に観察する事。環境と自分を観察して、その動き、変化を見る。そのやりとりを遊ぶ。この観察する自分は自由であります。

ネタが尽きて、そのあげく思いついた戯言でありますので、お許しを。でも、自由になったら、本当の自由を得たら、どんな環境で、どんな反応をしているか、そんな事が気にならなくなって、何でも楽しめるようになるのではなかろうか?そんな気がふっとしてきました。実際はどうか?観察する事、何でもかんでも黙って観察すること、そこにちょっと興味が湧いてきました。良い悪いを初め、ありとあらゆる評価をせずに、ただ観察したらどうなるか?まあ、戯言、戯言。無駄、言葉遊び。

いろんな時に、いろんな環境に出会い、いろんな自分の反応を遊ぶ。そんな事が可能なのか?
可能になるなら、これこそ本物の自由、本当の遊びかもしれません??????
つまらん事をぐだぐだと済みません。

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