第二話 大人の遊び

子供の時は、何でも夢中に遊ぶ事ができました。毎日が遊びです。大人から見たらつまらない物でも、宝物であった。ところが、大人になるに連れて、遊びが下手になります。酒と女と博打?
大人になると、何でも遊べるというわけには行きません。これは不幸な事でもありますね。

人は成長する度に、遊び心を無くしてしまうかのようです。子供は遊びの天才。何でも遊びに転換してしまう。時に自分で勝ってにルールさえ決めて、その場を遊びにしてしまう。遊びは本来、我々にとって、誰もが持つ本能的な才能なのかもしれません。しかしながら、時とともに、その才能は頭脳や理性によって押しのけられる。何が大事なのかを教育され、数学を解く事はできても、頭脳は発達しても、心を抑え込んでしまう。それが大人の理性。

大人だから遊ばなくて良いわけじゃない。仕事さえしていれば良いとうものでも無い。遊びは我々が持つ才能のひとつ。全ての人が持つ才能であります。それをいつも携える事は、我々の人生を潤す事になります。仕事ばかりで、物質的欲求ばかりを満たして、ストレス溜めて。心を埋めるのは遊び心に他ならない。ひょっとしたら、幸福度はこの遊び心にあるのではなかろうか?

大人になる度に、何でも理性で判断し、良いか悪いかを無意識に決める。遊びは、それが何であるかよりも、いかに遊べるかと考える。もっともっと遊んだ方が良い。それが幸福への道かもしれません。今できる事を、今ある中で遊ぶ。これが遊びの極意。

最近の子供は、昔と違って、物が豊富になったせいか、何でも遊ぶというわけでは無いようです。あれが無いと遊べない、これが無いと遊べない、そういう風に変わってきました。昔は、自分で作って、何でも工夫して遊んだものです。そういう意味では、今の子供の方が遊んでいない。

もはや道具無しでは遊べない。それは不幸な事かもしれません。が、しかし、そういう時代であっても、できるだけ遊び心を発揮して、何でも楽しもうという気持ちが必要なのかもしれません。道具を揃えて、それでも、どういう風に遊ぶかという方法まで指示されないと遊べなくなってしまった。いつも、教養と理性が邪魔をする。それでは、いけませんね〜。楽しく無い。

ヨットは大人の格好の遊び。理性で考えると、つまらない部分もありますが、大人は行動の前に考えすぎる傾向にあります。ですから、遊ぶ時はつまらない考えを捨てて、まずは行動。感覚を遊びのエネルギーで刺激してやらねばなりません。何の役にも立たないセーリングという遊びを、感覚的に捉える事が、まずは大切でしょうね。そして、行動してから考える。今度は、大人としての、知性の部分を刺激します。子供の心で入って、大人の知性で補う。これぞ、まさしく大人の遊びであります。

今日の談義で、昔はデッキ上の装備を、自分達で使いやすいように変更していたという話が出ました。それが最近では出来上がったしまった感があり、与えられた物をそのまま使うようになってきた。完成度が高くなるにつれて、遊びが減少していく。まあ、解らないわけでもありませんが。ですから、世の中が発展すればする程に、遊べなくなってきているのかもしれません。無意識のうちに、そう流れてしまっています。それが何となく、つまらないという感覚生み出す。

酒を飲めば、理性が薄れる。大人の遊びには酒がいつも登場します。ひょっとすると、理性にあきあきしているのかもしれません。酒を飲んでる時は、理性が引っ込んで、遊んでいる感覚になるのかもしれません。

それじゃあ、理性の前に行動を。感覚的に面白いと感じた事を、行動に移す。考えるのはその後です。考えないで良いなら、それも良い。常識とは逆に行った方が面白いのかもしれません。我々は何でも良く考えて行動します。それが大人であります。しかし、結局は意識的にそうしているのでは無く、無意識にそういう理性が働く。意識的であるつもりが、本当は無意識なのではないでしょうか?無意識に考える。ですから遊べない。という事は、意識的に、考えないという事が必要なのかもしれません。非常識?

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