第九十二話 偶然と確率

前にも偶然という事について少し書きましたが、この事が少し頭に残っており、偶然について考えていました。偶然に誰かや何かに出会うという事、セーリングに出て、偶然にも良いセーリングに出会う事、偶然にはいろいろあり、人生の半分を占めているのではないかという事。

確率の問題で、サイコロの1から6までの数字の出目の話は時折聞く話です。サイコロを振って、何の数字が出るかは6分に1の確率です。今、第一回目に1が出たとします。2回目も確率は各6分の1づつ。また、1が出たとしても、三回目の確率は各6分の1づつです。つまり、何回目であろうが、確率は6分の1なのですが、そのサイコロを振る回数が何千、何万と増えていきますと、全ての数値が均等に出てくるのだそうです。つまり、6万回サイコロを振ると、各数値がだいたい1万回づつ出る。そういう事だそうです。偶然ならば、確率は兎も角、全て1となる可能性もあるはず。でも、必ず、回数さえ多くなれば平均化される。

サイコロを1回振る時の出目は偶然の数値です。しかし、それが重なると平均になるのは何故か?1回は偶然ですが、回数が多くなると偶然では無く、必然的に平均化する。これはどういう意味になるのか?

この解釈は難しいのですが、日常において起こる1回の偶然は、長い年月において、サイコロの平均化とは違う種類かもしれませんが、ある種において必然の方向にあるのかもしれません。サイコロでは無いので、出目が6個しか無いわけじゃないが、毎日、毎日、我々はサイコロを振りながら、偶然を経験し、でも、トータルとしては、何らかの必然の方向に向かっているのではないか?

必然の方向は解らない。神のみぞ知る、という事になりますが、進化の方向か、或いはまた違う何かか?2度ある事は3度ある。トラブルが集中したり、或いは逆に良い事も集中したり。運が良い時、悪い時があったり。確かに、ただ偶然のみでは無いような気もします。もし、トータルとして、何らかの必然の方向にあるのなら、考えようによっては、今この1回の偶然も、トータルとしてみれば必然の範疇に入る事になります。偶然の重なりは偶然であって、必然にはならない。逆に、トータルが必然ならば、各部分も必然とみなすべきではないかと思います。

さて、それでは、我々が毎日遭遇する事も必然であるとするなら、考え方も違ってきます。何の目的か、それはトータルとしての必然の目的ですが、それは解らないものの、必然としてみると、見方が変わります。

今日、セーリングに出て、良い風が吹いた。吹かなかった、強風だった、それらにいちいち良いの悪いのと評価を下す事の重要性は薄れてしまう。良い事も悪い事も相対的であり、それは評価する側の基軸がどこにあるかに寄ります。そういう事で一喜一憂するというより、偶然を(必然としての偶然)をどう捉えるか?起こる事をいかに楽しめるようにするか、いちいち評価を下さないで、出来事をどう楽しめるかと考えた方が良いのかもしれません。そして、トータルとしての必然はどうなっていくのか、それはある種の冒険の旅。全体的にどこに向かっているのかを、見てみようという態度の方が良いのではないか?

出来事を楽しむというのは、出来事に対して、できる事をして、その結果がどうなるか、その結果さえも、偶然が働き、それがどんな風になっていくのか?狭いポイントとして見るのでは無く、長い期間の一部として味わうという事になる。

そう考えますと、気が楽になってきます。今日出たら強風だった。でも、それは長い期間の今日という1日の偶然を取り上げただけです。長い期間というスタンスに居ながら、今日1日を見る。今日1日を味わう。そうしたら、何か気楽さが出ないでしょうか?

ヨット界に若手が少ないとか、ヨット離れとか、高齢化とか、いろいろ問題はあります。しかし、これとて、長い期間の必然の一部、考え方によっては、これからどうなるのか楽しみでもあります。それを憂う方法もあるでしょうが、ある必然に向かっているのであれば、無駄な事、なるようになる。ならば、どうなるか楽しみと考えた方が良い。

長い期間における必然の方向性は何か?今度はこれが問題になります。これにはふたつあって、個人的な問題と社会的な問題とになります。個人の問題は約80年間、社会の問題は永い問題です。それで、多分、個人の問題が全て積み重なって、社会の問題になるのではなかろうか?

個人の問題は、ひとつひとつの偶然をどう捉えるか?この捉え方には個人差があります。この個人差が何らかの影響を及ぼすのではないか?どう捉えれば良いのかは解りませんが、考え方が代われば、対応の仕方も変わる。結局はそこかなと思います。それとその時の気分が重要なのではないかとも思います。つきを捕まえるも逃がすも、気分が大事なような気がします。各個人の問題はサイコロの出目のひとつ。各人で考え方も違えば、対応も違い、その時の気分も違う。でも、全員を総合したら、何らかのひとつの社会的方向性があるのでは無かろうか?

訳の解らん事を書いてしまいました。でも、何か自分の気分を、どう感じているかを、セーリング中に意識するというところから出発して、なにか、この気分のあり方の重要性があるような気がしています。行為は偶然に影響を受けますが、気分は偶然では無いような。つまり、人によってどうとでも考えられる。それが気分にも繋がる。ひょっとして、行為よりも気分の方が重要だったりして?
いつも、良い気分で居るというのは非常に難しい。でも、そこがミソなような?少なくとも、平和な気分で居られるようにはしたいもんです。

こんな話に根拠はありません。気になっている事に、思いつきが重なっただけでありますが、でも、次にどんな偶然が起こるだろうと思うと、何だか興味が湧いてきます。実際に、面白い偶然に出会う事もある。どうせなら、楽しんでしまえ、という気分です。さあ、次に何が起こるだろうか?これはまるで、映画を見たり、本を読んだりしているようなものです。ただ、気分によってストーリーが変わる事は無い。でも、人生はこの気分に影響されるのではなかろうか?気楽に、気楽に。こんな事に正解は無い。全ては気の持ちようとも言われます。ならば、いかに気分を整えるかが重要なのかもしれません。そうすれば、ヨットライフも楽しく、楽しく。楽しめる人が勝ちなのでは無いでしょうか?

次へ       目次へ