第九十話 馴染み感

何かを学ぶ時は何でも同じだと思いますが、最初はいろんな事を覚えて、面白くて、一生懸命なのですが、それゃあそうです。最初ですからレベル的には初歩の初歩、すぐにいろんな事を習得します。でも、先に進むにつれて、レベルが上がるわけですから、これまでのように簡単にはいきません。それでそこに留まると、面白さも中途半端になりかねません。かといって、進むのも簡単じゃ無い。

それでも、やる人は、ああでも無い、こうでも無いという時期を過ごす事になります。ちっとも進歩が見えない。そういう時があります。何度やってもうまくいかない。何が原因かも解らない。解らない事が何かも解らない。それでも、続けていくと、ある日突然ですが、何かこれまでとは違う何かにつきあたる。同じようにやっているのだが、何か馴染んだ感じがする事があります。そこに楽しさを感じる事になります。何をどうしたからという具体的に変わった事が解らないでも、何か違う感じ、馴染んだ感じというのが出てくる事があります。

こういう体験をしますと、必ず何かが進歩している。以前より高いレベルに挑戦しているわけですから、時間もかかる。でも、一旦この感じを得たら、スーっと前に進む感じが解る。そして、ある程度まで進んだら、再び膠着状態を感じるでしょう。その時は、またレベルの高いところに挑戦しているからでしょう。進歩はきっとなだらかなカーブでは無く、階段のようになっているのかもしれません。進歩を一段でもしますと、これまでとは何か違う感覚でする事ができる。何かを習得するような事は、こういう進歩で面白さのレベルをあげていかなければ、面白さを持続できないものかもしれません。ですから、膠着状態に陥ったら、それでも続ける事によって、さらなる高いレベルに望んでいるのだと思う事です。

長い事やって、この馴染み感を何度も経験していきますと、ある日突然ながら、自由自在に操る自分に気が付くのかもしれません。上を見れば挑戦になりますが、下をみればかなりの自由感を得ている。何回この馴染み感を得ればそうなれるのかは解りませんが、でも、面白い何かがありそうです。実践してきた人だけに与えられるご褒美みたいなもんでしょうか?

人生一度きりと言いますが、その人生において、何かひとつでもマスターしたと言えるような何かを持ちたいと思います。たとえそれが何であっても、自分の体と心がフィットして行える何かがあれば、人生に潤いを与えるような気がします。

ヨットは何かに役立つものでは無いかもしれません。それでも、セーリングにフィット感がありますと、実に楽しくなります。できれば、そういうレベルにまでは行きたいものです。ヨットは単なる遊びに過ぎませんが、同じ遊びでも、その場限りの享楽的な遊びとは違い、学び、積み上げていくものです。そういう遊びは、やり方によっては永遠に遊べる事になると思います。ここに至ると、楽しいからとかそういう事では無くなり、いろんな感じを楽しむ事になっていきます。舵を持つ手に感じる微妙な変化とか、セール操作で変わる何かの感じとか、そういう妙を感じ取れる自分が居るわけで、
そこがまた面白さになるかと思います。要は、うまいとか、下手とか、速いとか、遅いとかはありますが、最終的には、自分の感覚が鋭くなって、いろんな妙を感じとれるようになる事、これが最も面白いのではないかと思います。自分の感覚を遊ぶような感じでしょうか?それが無いと、いくら速くても、面白さが違う。もちろん、進化した感覚を持ちながら、下手では居られないとは思いますが。

馴染むと、感覚的に楽な感じが生まれます。力が抜けて、楽に、効率良く操作ができる感じかと思います。それが面白くないはずはない。一段上った感じです。セーリングが一種の戦いのような感じが、調和に変わる事かとも思います。それまでは、風と波とヨットに対しても、相手側に居たのが、少なくともヨットは自分側につく。もっともっと馴染むと、風も波も自分を遊んでくれる感覚になるのかもしれません。

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