第七十話 求道者?

何かがうまい人というのにはあこがれます。別にプロレベルでは無いにしろ、自由自在に遊べる人、例えば楽器演奏ができる人、絵がうまい人、テニスがうまい人、キャンプに行ってもテキパキと動ける人、歌がうまい人、フルマラソンが走れる人、歴史に非常に詳しい人、何らかの分野において、長けた人には畏敬の念が沸きます。

そこで、ヨットをやるなら、どうせなら、動かせるだけに留まらずに、セーリングに長けた人になりたい。そこそこ自由自在に、そこそこは自分で満足できるぐらいに。ヨット談義ができるぐらいに、ゲストを乗せて楽しませてあげれるぐらいに、そうなれた時、ヨットやセーリングに対する意識は、前の時とどんなに違ってくるでしょうか?

知識は本を読めば、いろんな事が解ってきます。いわば外国語の文法みたいなもんでしょうか。その文法を学んで、理屈が解って、その理屈を実践で試す。ヨットの場合、難しいのは文法では無くて、実践にあります。実践で、その学んだ文法を使って、より良いセーリングを目指そうという事になります。かたことの言葉をしゃべるよりも、少しでも流暢の方が、より表現できます。それと同じで、セールを開けば、ヨットは走る。実に簡単です。これも間違いでは無い。でも、ベターなセーリングがあるわけですから、そのベターを求めます。するとどうなるか?走る感じが違ってきますね。動いていたものが、走る感じへと変わる。それを走らせているのは自分です。動いている時点では、ヨットが勝手に動いています。でも、そこに自分の意図が加わり、操作する事で、自分が走らせる事になる。すると、もっと良い感じに走らせるにはどうしたら良いのか?同じコース、同じヨットを使っても、動いているのと走っているのとでは違うものだと思いますね。

走らせるなら、ベターを。ベストを目指して、ベターを得る。それで、そこそこ解って、そこそこベターに走らせる事ができるようになりますと、気持ちにも余裕ができてくる。その余裕は、自分のセーリングを感じる余裕、前よりももっとたくさん感じる余裕、微妙ささえも解る鋭い感性、その繊細さがあるからこそ、また、ベターを求められる。結局、ヨットは動いている状態でも楽しめますし、ただ、うまくなれば、それだけ違うフィーリングになっていくと思います。それを自分で味わいたい。

楽器演奏だって、初歩の曲はすぐに弾けるかもしれません。テニスにしても、とりあえず打ち返すぐらいはできるようになるかもしれません。でも、本当の面白さはこれから先なのではないかと思います。フルマラソンを走れるだけでもすごいなと思いますが、走れる人は今度は時間を縮めたいと思うでしょう。絵画にしても、陶芸にしても、描ければ良いわけでは無く、もっとうまくなりたいと思う。それと同じで、初心者でも楽しめるが、もっとうまくなった方がもっと面白いわけです。

セーリングに対してはあまり求めずとも、クルージングの旅に出るという方法もありますが、それはそれとして、日常に気軽にできるセーリングをもっと面白いものに創造していくのは、旅とは違う別な面白さです。セーリングはレーサーだけのものじゃない。いつもそう思います。勝つか負けるかというやり方以外にも、セーリングそのものを楽しむ方法があっても良いと常々思ってきました。勝負であるなら勝ちたい、どんな走りだったかは別にしても、勝つ事が優先です。でも、勝負で無ければ、どんな感じだったかを優先できます。そんなセーリングがあっても良いのではないでしょうか?
すると、フィーリングに集中します。良い感じというのがあるんですね。時に、すごく良い感じになる事があります。滑らかさを感じたり、加速感を感じたり、一体感を感じたり、なかなか良いもんだと思います。無意識に全ての操作ができて、全神経がフィーリングに注がれるようになるのが理想です。車だって、無意識に操作できます。いちいちアクセルだ、ブレーキだとは考えません。それと同じようにセール操作ができて、そして走る感じに集中できるなら、こんなに面白い事は無いのではないかと思います。それでも、うまい、へたはあるでしょう。でも、そこまでは行きたいと思います。一体となってます。それをセーリングでできるというのは、贅沢な事。それができるなら幸せです。

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