第六十八話 便利さの追求

我々は何か楽しい事はないかといつも探しまわっています。その楽しい事というのは、感覚ですから、楽しいと感じるフィーリングを求める事になります。ところが、一方で便利さを求め、いつの間にか、この楽しさと便利が一緒になってしまったような感じがします。

或いは、楽しさを求めてはいるものの、それは便利さを感じる範囲以内になってしまって、それ以上の楽しさを求めるわけでは無いのかもしれません。否、自分でそれを封じ込めているのかもしれません。楽しさを求めれば、そうで無い事も一緒に付いてきますが、それが便利で無い限り、そこまでして求める事は無い。だから、インスタント的な楽しさになってしまう。

ドラエモンという漫画を今でもやってるようです。楽しさを求め、でも、ドラエモン的にポケットから出てくる便利さにあこがれてしまう。嫌なものを避ける手段もインスタント的に解決を望み、ほしいものもインスタント的に手に入れたい。何につけても便利が一番。

確かに、便利になりました。それは良い事でしょう。これからも益々便利になるに違いない。便利な社会では、ちょっとでも不便を感じると、いらつくようになります。ちょっと電車が遅れるだけ怒る。携帯電話に相手が出ないだけでいらつく。一方で、楽しいという良い感情も便利さの範囲内ですから、感動するような事は薄れてしまうのではないか?そこで、その感動を映画やテレビドラマ、本などに求めて、バーチャル体験で補う。そういう時代ではないかという気がします。

快適を求めるのは当然の事です。その快適さは便利です。こんなに便利になったにもかかわらず、幸福度は低い、これからは心の時代とか言います。それで、これを何とかしようと思い、いろんな事をしようとするのですが、やっぱり我々は便利さから抜け出せないので、その癖が出てしまいます。不快がひとつあれば、それを無くしたいと考えます。しんどいと感じれば、楽にできる機械が登場します。それでも良いのかもしれませんが....?

ヨット界にもそれと同じ路線にあり、今までも何度も言ってきましたが、その例として、スプレーが嫌だからドジャーをつけるという事です。確かに、正しい選択なのですが、これらは全て便利さの追求の中にあると思います。それが悪いわけでは無く、自動的にそういう発想になる事自体が、便利以上の楽しさ、面白さ、感動を除外してしまうのではないか?そしてそこに気がつかないで居る事が幸福度が低い原因ではないかという気がします。何か楽しい事をしたつもりで、何かいまいちと感じてしまう。ヨットが動かないのも、時間やクルーの問題では無く、いまいち面白さに感動しないからかもしれません。

便利な物を採用する事には一向に構わないと思うのですが、自分の面白さが何処にあるのか、それをきちんと意識しないと、ヨットはそのうち便利な乗り物でしか無くなるのではないか?今更、あえて不便に耐えるなんて事はナンセンスです。かと言って、インスタント的な楽しさでは、たいした事は無いし、心が潤うわけでも無い。そのうち飽きて、また違う事を始め、同じ事を繰り返す事になりかねません。そして、いつもいまいちなのです。

そこで考えたのが、便利な、気軽な、セーリングです。あらゆる便利な機械を駆使しても良い。しかし、セーリングをするという行為の中に、完全に意識を集中して、そのフィーリングを味わう。自然相手ですから、自然を便利に変える事はできません。つまり、これからの感動は自分の力ではどうしようも変える事のできない相手と遊ぶところにあるような気がします。便利はあくまで手段であって、それが最終目的では無い。それらの道具を使って、より面白さを追求する。バーチャルでも何でも無い、自分の体験です。そこには楽しさも辛さもあるわけですが、その両方を受け入れる事が充実感であり、それが幸福感なのかもしれません。

映画やテレビドラマには感動する事もあるでしょう。つまらない事もあります。しかし、辛いなんて事は無いのではないでしょうか?テレビゲームもそうだし、小説読んでもそうだし、バーチャルの世界には楽さがあります。エアコンの効いた部屋で、ゆったりと擬似体験する事ができます。例え、面白くなかったとしても、この楽さの中での事ですから、たいして後悔するわけでも無い。

でも、実際に自分自身の体験となりますと、こうは行きません。場合によっては後悔するかもしれません。何で、こんなくそ暑い時にヨットなんか乗っているだろう、おまけに風は無いし、とか。でも、これはバーチャルな世界では無く、リアルな世界。この違いは何だろう?そのリアルな世界にも便利を求めてしまいますが、本当の充実感は、この便利を使ったとしても、それを越えるところにあるのかもしれませんね。便利になったから、今までは出来なかった事がもっとできるようになった、もっと面白い体験ができるようになったとか。便利さで補うも、その範囲内に留まるという事が何の気なしにしてしまう事ですが、それだとインスタント的な楽しさを求める気持ちに少し近くなるような。それはバーチャル的な感じ。便利の究極は、ボタン1個押したら、コンピュータープログラムで、全てをこなしてくれるヨットという事になります。それでもセーリングをしている事実は変わらない。

インスタント的なバーチャル的な楽しさ、これにリアルな世界を近づけようとしているのかもしれません。そこそこ楽しいし、辛さは無い。便利さを味わうと、今更それなしでは考えられません。それでも、何らかの本物の感動を得たり、充実感を得ようと思うと、物的進化の後からついてくるのでは駄目で、我々の進化が、物的進化よりも、1歩先に進んでおかなければならないのかもしれません。そうすると、あらゆる便利さを使いこなし、そのうえで、感動も充実感も味わえるかも?

それで、提案は、いつもセーリングの奥深さを求めてはどうかと思います。それを知る為に便利を使いこなそうと思う事、求める事が前提にあります。便利は後からついてくる。でも、いつの間にか、乗る事だけが目的になってしまったりします。乗る事が目的なら、便利が良い。油断してますと、ついそうなってしまいます。便利になると、つい本来の目的が見失われてしまいます。たった意識だけの問題なのですが、わかっちゃいるけどやめられない。植木等さんの名言ですね、これは。まず必要な事は、自分の意識がどこにあるのかを解る事じゃないかと思います。

だから一方で、シンプルが良いんだという人達が居ます。でも、シンプルだろうが、便利グッズで囲まれようが、意識次第じゃないかと思います。リアルかバーチャルか、それを知ることが大事なのではないかという気がします。

スプレーはリアルです。ずぶ濡れになるかもしれません。でも、濡れた感触、水の冷たさを感じます。それって悪い事なのでしょうか?子供の頃、学校帰りに雨が降って、傘を持たず、ずぶ濡れになった事がありますが、それが楽しかった。楽しいという感覚があった。傘をさすのが常識ですが、時には、そんな濡れても良いという感覚が持てれば、もっと何か面白さが味わえるのではないかと思う事があります。

バーチャルな世界はコンピューターの中だけかと思ったら、どうも、我々の現実世界も、バーチャルに近づきつつあるのかもしれません。それが良い事か悪い事かは解りませんが、どうも感情や心とか、そういう機械ではどうしようも無いものが、楽しいんだけど、何かいまいちと言ってるような気がしないでも無い。

次へ       目次へ