第五十四話 極める?

前話でセーリングを極めるなんてだいそれた事を書きましたが、そんな事は無理な話?でも、自分の極める、という事を考えても良いと思います。他人から見たらどうかでは無く、自分の極め方?
極めたと思う事自体おこがましい話ですが、それはそっと自分の胸にしまっておいて、自分自身が自分のやり方で、自分の遊びができて、自分が面白いと思い、そしてそれを誰か他の人達にも、分けてあげれる、時々。それで良いのでは無いでしょうか?自分の面白さが解る、自分の遊びを極めるという事になりましょうか?何にしろ、終着点は無いのですから、極めるのは土台、無理な話です。

極めてやろうと思って乗る。挑戦者として乗る。面白さは千差万別ですから、どこに自分の面白さがあるか、それをひとつでも多く見つけ出す。ひとつ見つければ、ひとつ極め、ふたつ見つければ、ふたつ極め、この場合、明らかにするというのが正しいかもしれません。

生きていれば、何かします。どうせ何かをするのなら、それを明らかにしようという、それだけです。その行為の中に、自分のどんな感じがあるかを明らかにしようという話です。楽しい、楽しくない、もっと具体的にどこがどう、そういう事を明らかにして、選択していきます。でも、この選択、正しい、本当の選択をするには、ある程度は本気でやらないと解らないものかと思います。本気でやって、気にいらなかったら、捨てましょう。ひとつひとつを本気でやらないと、行為だけ次々に変えても、きっと、極める事は永遠に無理かもしれませんから、やるなら本気で。どのくらい本気かは、自分次第ですね。

そういう私は熱しやすく、冷めやすい。これまで、いろんな事してきましたが、殆どを捨ててきました。残ったものには、面白さを明らかにしています。ですから、一生やれるでしょう。うまくは無い。ただ好きなだけ。うまくはなりたい。でも才能が無い。だからプロには成れないし、成らないでも良
い。アマチュアは自分が楽しいのが一番。それからちょこっとでも回りの人を楽しませれば、それで最高、上出来です。プロは、より多くの人達を楽しませる事ができる。だからプロであります。マイケルジャクソンはプロ中のプロ。世界中の人達を楽しませた。でも、才能があったからプロになれたわけですが、それで幸福かどうかはまた別な話。案外、アマチュアで、ご近所だけで楽しむ方が悩まなくて幸福かもしれません。称賛はありませんが、これもまた幸福とは別の話。

誰でも幸福になりたいはずですが、何かを極めたり、才能があったり、それで幸福になるわけじゃない。その事と幸福とは無関係なのではないか?できない事ができるようになるのは嬉しい事ですが、それも幸福になる事とは別問題。きっと幸福になるのにも、才能がある人と無い人が居るに違いない。幸福な人は、それができるかできないか、才能があるかどうかに関係無く幸福なのでしょう。何しろ、幸福になる才能があるわけですから。そうしますと、幸福な人が何かをして、何かができると喜び、出来なくても、ゲームとして楽しむ事ができる。

もし、そうなら、本当に楽しむ為には、まずは幸福でなければならない事になります。幸福だからこそ、いろんな事を楽しめる。良い風吹いた時だけ楽しいのでは無く、いろんな場面をそのまま楽しむ事ができる。良い場面に遭遇したから幸福だと思うなら、そうでない時は簡単に不幸になってしまう。それでは極めた事になりませんね。ゲームとして楽しむには、幸福を極めなければならない。
多分、これが究極の極めではないでしょうか?

でも、この極めは、なかなか難しい。何かをするわけでも無く、何かの条件でも無く、それでどう極められるのか?人類最大の悩みであります。幸福になりたくて、何かをする。でも、それでは永遠になれないようです。まずは幸福を極める事が必要なのかもしれません。そうなりますと、何をやっても楽しいのではないでしょうか?では、どうやったら幸福になれるのか?そんな事は解りません?解るはずもない。どこかに売ってるなら買いますが。

それで、本気で何かをする。やっぱりここに戻ります。自分の面白さをひとつひとつ明らかにする。そんなこんなしてたら、そのうち何か解るかもしれませんので。それで、偶然にも、極めてしまったら、もう、何をしても面白い。この世は天国ですね。でも、そうはいきません。すごい業績を残した、才能ある人は尊敬されます。でも、真に尊敬すべきは、幸福になれる人かもしれません。幸福を極めた人かもしれません。そんな人はまだ見た事ありませんが、もし居たら、ヨットに乗って、良い風吹こうが、無かろうが、雨が降ろうが構わない。そんな感じでしょうか?
♪♪ COME RAIN、COME SHINE ♪♪ 降っても、晴れても。

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