第四十七話 大人の遊び

ヨット遊びは大人の遊び。いや、本当は子供が遊んでも良いのですが、まあ、大人でしょう。それも殆どは男です。男の大人の遊び。もちろん、女性でも良いのですが、一般的には少ない。男にとって、遊びは享楽的な場合もありますが、それは一時的な、その場の遊びの場合です。大の男が、何年にも渡って遊ぶなら、やはりそこには何かがある。教養も人生経験も備えた男が、10年も,
もっとやる遊びにおいて、全部がその場の快楽のみで済ませられるはずが無い。そこには、長い年月を経て。得てきた何かがあるからこそ、10年も、それ以上もやれる。家族を思って、家族の為に、そんな事(失礼)では何十年もやれない。と、思うのです。

ヨットの深みにはまる。それが男を海から離さない。長くやればもちろん良い事ばかりでは無い。それが一時的な享楽では無いからこそ、それでも続ける事ができる。長くやれば、知識において、技量において、経験において、深くなります。何も深さは、どこどこ行った距離で計るものではもちろん無い。何も語らなくても、雰囲気で伝わる。その人のヨットを見れば解る。

ヨットは他の物に比べて、手に入れるのは簡単では無い。それだけに、ヨットをやるというのは、通常は何年も、何年も、長くやるのが前提になります。この長くやるというのは、それだけで、ちょっとやるというのとは、全く違う意味を持つ事になります。楽しいかどうか、それだけでは無く、長くやるには面白さが無ければ、長くやる事はできないし、値しもしない。

いろんな遊びがあって、いろんな趣味があって、何を選択しても良いのですが、広く浅くというのは、若い頃には良いかもしれませんが、ある程度年齢を重ねてきたら、これからは、ひとつを深く、深く知ってはどうかと思います。狭く、深く。それは表面的な知識、経験に収まらず、他の事はいざ知らず、ヨットに関しては、深く知る。知識として知るなら、本を読めばすぐですが、経験というのは、自らが、年月を重ねて体験する他はありません。これはいくらお金を積んでも買えないし、いくら本を読んでも、いくら人から話を聞いても、どうにもなるものではありません。コツコツと経験を積み重ねて、自分で体得するものです。ですから、簡単にはいかない。だからこそ、貴重なのであります。

若い頃からいろいろやった。でも、ここらで、落ち着いて、何かに打ち込んでみる。そこから得られる何か?は後々において、大きな財産です。もちろん、後々の為にやるわけではありませんが、徐々に積み重なる経験は、薄っぺらでは無く、深さを心に刻む。

その深さを知る行為は、派手でも無く、むしろ地味で、端から見れば、なんてことは無いように見えるかもしれません。でも、自分の内部では違う。そして、いつかは、その深さが回りの人にも伝わる。どんなに遠くへ行ったかでは無く、どんな危険な目にあったかでは無く、深さはどれだけ馴染んできたか?海に馴染み、風に馴染み、波に馴染み、ヨットに馴染み、舵に馴染み、セールに馴染む。
実に大人っぽい。

若い頃は、かっこ良さが主だったかもしれない。女性にもてたいだけだったかもしれない。もちろん、今でもありますが。でも、それだけじゃない。それが、これからの大人の遊びなのです。もっと突っ込んでみよう。表面的だけでは無く、自分の人生をかけて。人生を潤す為にも。私も含めて、人生は後20〜30年ぐらいか。そう思う時、何かを深くさぐってみるという事も悪くない。それで、寿命が延びるわけでも無いが、同じ時間を過ごすにしても、意味がある。

残りの人生をどうするか?それが大人の遊びなのではないでしょうか? どっかで、適当に誤魔化してる場合じゃ無いし、適当に妥協している時でもない。他人がどうあれ、自分の心を満たす何かを見つけ、そこに深く入っていく。そういう事ができる時期でもある。こだわって良いのだと思います。むしろ、こだわるべきでもある。もちろん、完璧主義はいけませんが。そこは、大人としての対応がある。

キャビンでじっとしていても、それが何でしょうか?せっかく家を出て、マリーナに来たのに。ならば、ちょっとでも出して、今日のセーリングを経験として重ねましょう。決して快走とは行かないまでも、それは何らかの経験としてつみあがっていきます。何度も、何度も経験すると、そこには自然に深さが加わる。そこに気づいたら、意識が深くなる。大人の遊びの始まりです。こうなると、ひとつひとつが良いとか悪いとか、そういう評価をする事さえ無意味に思える。どっちにしたって、経験の一部であります。積み重なりの一部。そうやって、1年、2年と続けてきたら、一体何があるのか?
解りませんね。やった人しか解らない。それを、もっと5年、10年と続けてみると、これまたどうか?実に興味深い。大人の遊びは、実に深い。それゃあそうでしょう。残りの人生を費やしているのですから。でも、必死はいけませんね。おおらかに、ゆったりと。楽しく、面白く。極めてやろうと思っても、そのプロセスはおおらかに。必死になると、遊びでは無くなる。充実もしない。求めるは極める事では無く、充実感でなければならない。そして、充実感はいちいち良いと悪いに分類しない方が良い。ただ経験あるのみ。それを感じるのみ。これが大人の遊び方?

ただ、乗って楽しく。それも良いかもしれません。でも、もっと感じて、セーリングそのものの無限にある様のできるだけ多くの面を感じる。それは、楽しいかどうかという2面では無く、多くの面を知る。これこそ大人の遊びの深いところではないでしょうか?もっと深く知るという事は、楽しさという面以外にどれだけ多くの面を知るかという事になると思います。大人の遊びは、より多くの面を知ろうとする事ではないかと思います。楽しさはある一面をあらわしますが、多面性は面白さという事になろうかと思います。多面性には、良い面も悪い面、良い悪いは勝手に決め付けているだけですが、あらゆる面を含む。より多くの面を知る。これが深さであり、それを歓迎するのが大人の遊びではないかと思います。

ヨットをしようと思う場合、ある場面を考えます。奥さんと、家族と、仲間とのセーリングです。その楽しさを想像します。しかし、これはある楽しいという一場面に過ぎない。大人の遊びは多面です。
多面で無ければ、長く続ける事はできない。ヨットは、例えば、温泉に行くとかのような楽しさだけでは、年に1回か2回でも十分だろうと思います。それは一面しか求めないからです。何度も乗るというのは、多面性を見たいから。

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