第九十六話 意図が無いゲーム

いつも何らかの意図を持って行動をします。ああしたい、こうしたいと思います。そういう目的がありますと、それを目指して頑張ったりするわけですが、それはそれでも良いとしても、意図はそれ以外を見過ごす事になる場合もあるかもしれません。ある意図は、その意図の範囲に入らないものを自然に拒否しているのかもしれません。

さて、そこで、意図の無い状態でやるとどうでしょうか?これからやるゲームに全く意図を持たない。こうであってほしいという希望を持たない。目標を持たない。ただ、ヨットを出して、何も考えずに、その時ある状態のままセーリングをする。その時の波、風の具合に何の期待も無く。その時にあわせて走る。次に何がやってくるのか?は期待するかもしれません。しかし、もっと吹いてほしいとか、風が少しおさまってほしいとか、そういう期待は無い。

それこそが、純粋なゲームになるのではないでしょうか?こうあってほしいという期待があれば、あるだけ、そうならない時はがっかりです。ここには、自分がその時味わいたい事だけを受け入れる姿勢があります。しかし、純粋にゲームを楽しむには、来るものをそのまま味わう姿勢の方が良いかもしれません。こうあってほしいとは思わない。そんな意図は無い。どうなるか?という冒険心だけです。何故そのゲームをするか?それが面白いからです。単純な理由です。ある決まった意図が無いと、純粋にゲームとして遊ぶ事ができるのではないか、という気がします。

自然相手ですから、こちらがどんな意図を持とうが、なかなか都合良くは行きません。雨が降ったり、スプレー浴びたり、思うように行かない事が多い。しかし、何がもたらされるかという期待なら、こうあってほしいと思う事さえ無ければ、ただそれに合わせて今日のゲームを楽しめるかもしれません。風が無いなら、無いなりに、強ければ、強いなりに、そう思えますと、自然の恵みを感じます。これが今日の自分に対するプレゼントのようなものと思えれば、それで、今日はどうやって遊ぶか?嫌だなと思わなければ、それだけ楽しむ事ができる。

ひょっとしたら、これこそが、純粋にゲームとして遊ぶ最高の方法かもしれません。何も拒否しないで、そのままを受け入れる。その時の状況に合わせて、遊ばせてもらう。例え、拒否しても、意図と違うからと拒否しても、何かが変わるわけでも無い。

意図に偶然が加わって、うまい事いかないこともありますが、最初から意図が無ければ、偶然を敵に回す事も無く、偶然を遊ぶ事さえできるのではないでしょうか?めったに行かないと期待をしてしまいます。意図が大きくなります。しかし、日常化する事で、意図を無くす事ができる。特別視しなければ、意図はあまり強くは無くなります。すると、面白く無いどころか、意図が無い分、じっくり味わえるのかもしれません。良いも悪いも無く。ただ純粋に味わいだけがある。 

偶然や運は、自分の意図があるからで、意図があるから良いと悪いに分けますが、意図が無ければ、良いも悪いも無い。良いも悪いも無ければ、味わいだけがある。それこそゲームとして遊べるのではないでしょうか?ところが、そう簡単には行きません。ついつい考えてしまいます。考えると良いと悪いに分けてしまう。そこが難しいところです。

でも、今しているセーリングに集中しますと、余計な事は考えない。何かの変化に対しても、それに応じて対応するだけです。意外に、そういう時というのは考えてはいないのではないでしょうか?とっさに、さっと対応して、考える暇などは無い。そこに集中しますと、ゲームとして、その瞬間の味わいを得られる。そうやって長い事積み上げた味わいは一体どうなるでしょうか?実に興味深いです。多分、これが面白いと感じられるのではないかと思うのですが。

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