第九十二話 情報過多

インターネット時代を迎えて、情報はますます増え、複雑になってきました。その情報もどれが自分に役立つか、刻々と流れる情報から選りだすのは至難の業。そこから自分にとって正しい情報を選び出すには、もはや理屈だけでは判断できなくなってきているような気がします。そこで物を言うのが、自分の感覚ではないかと常々思っています。

無数にある情報に行き当たるのは、何らかの縁があると考え、その中から頭脳を使って、絞込み、決定は感に頼る。そういう風に考えています。感というのは非科学的と考えられるかもしれませんが、自分に合うかどうかを一番解っているのが、感覚だろうと思います。理屈で生きられる程、人間は単純では無い。最後の判断は感覚でするのが最も適切ではないか?

ところが、科学万能時代に生きる我々にとって、感とは実に頼りない。根拠も無い。と思われるかもしれません。でも、よくよく考えますと、科学も万能ではありません。まだまだ解らない事が一杯です。それで我々は、何かを選択し、その結果が良いとか悪いとか言います。その良いか悪いかというのは、実は結果がもたらす気持ちの良さ、悪さではないでしょうか?つまりは、最後は気持ちの問題という事になります。例えば、目標があり、その目標を達成したとしますと、その達成がもたらす気持ちの良さが最後の判断です。達成そのものより、その結果最後の気持ちの良さが重要になります。

という事は出口が気持ちなら、入り口も気持ちで良いのでは?しかしながら、気持ちが真に自分の気持ちかどうかが重要になります。情報が豊富な故に、いろんな他人からの情報が多い為に、自分の気持ちは他人の情報でぼやけてしまう事がある。

情報はまずは、理性で判断して絞り込む。その最後で、感を働かせる。実は、現代人はその感が鈍っている。その感を取り戻すには、どうしたら良いか?実は、セーリングという行為はその感を働かせるのに非常に有効だろうと思っています。セーリングは理論も大切ですから、その理論で、いろいろな操作をします。その結果はヨットの動きに現れるわけですが、最後は感覚に繋がっていきます。それで、いつも、どんな感じを持っているかを意識する事によって、それに慣れていきますと、いつも、何をしていても、今この瞬間にどんな感じを持っているかを意識するようになる。そんな感覚に慣れた頃、新しい情報が飛び込んできた時、理屈を越えて、自分が今感じている事が意識できるようになる。すると、瞬時にその情報が自分が取って置くべきか否かが解る。ずっと進んでいきますと、理屈なんか考えなくても、分かるようになるのではないかと思います。

セーリングは感覚のスポーツです。野球やサッカーは点を取るという結果が無いといけません。でも、セーリングはレースでは無い限り、感覚的に気持ちが良いかどうか、味わったスリルなどが重要です。どんな感覚をセーリングから得られるかですから、感覚重視のスポーツです。
風速は何ノット、スピードは、セール形状はと考えてもちろん乗りますが、セーリングしていますと、自分の感覚に集中しやすいと思います。そこが良いところで、それに慣れて、常に、自分が何をしているかを意識するのと同じぐらい、何を感じているかを意識する。そんな事をセーリングから得たような気がします。すると、あらゆる判断が非常に楽になる。まだまだ、断定はできないかもしれませんが、まあ、今のところは間違っていないような気がします。いろいろ試してみて、また考えます。人間は理屈を超えています。情報過多の時代、全てを理屈で捌く事はできません。それで感が重要になる。今からはそういう時代になっていくのではないか?もしそうなら、セーリングしているとそういう感が鋭くなるかも?

今、何を感じているか?楽しさか不安か?違和感とか?そういう微妙な感覚を意識して慣れていく事が、うまく、楽に生きるコツではないか?そんな気がします。その感覚でさえ、意識すれば、うまい事すれば選択する事ができるのでは?情報の選択もあれば、その情報から受けた感情の選択もできるのではないか?これは喜びも悲しみも自分で選択した結果という事になります。情報に左右されるのでは無く、自分で選ぶ事ができはしないか?もしそうなら、それこそ自由自在だろうと思います。

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