第七十六話 味わいの可能性

何を味わうかって、いろいろありますが、もちろんスピードだけが面白いわけじゃない。確かにスピードが出れば面白い。しかし、それだけに面白さを感じるわけでは無いところに、人間の面白さがあります。

波が高くて、ヨットによってはハードに船底を叩きつける事もあります。しかし、船底形状によっては、実に柔らかく、ソフトランディングするヨットもあります。そんな時、何か頼もしさを感じたりします。

強風でもぐっとこらえてくれるスタビリティーに、上り性能の良さに、直進性の良さに、ありがたさを感じたりします。加速してくるのが感じられる時に興奮を覚え、的確な操作でタックを繰り返す自分の腕にも満足感があったり、そんなこんなのセーリングの帰りに、静けさの安堵感とセーリング時のギャップに浸ったり、そよ風に静かに走るヨットの味わいもある。大胆から繊細まで、味わいを重んじるのが日本人の特性です。

昔から日本人はそういう味わいを感じる国民性のDNAを持っています。お香をたいて、それを嗅ぐ。生け花、お茶、季節の季語を織り込む俳句などをたしなんだ。それらは、感覚を楽しんだのではないかと思います。生け花に一輪挿しというのがありますが、あれなどは西洋人には無い感覚です。絵画にしても、画面を物で埋め尽くすのが西洋、日本は空間を重んじる。風景画にしても、日本は昔から風景画が描かれたが、西洋では比較的最近の事です。西洋のそれは宗教画であり、歴史画であり、人物画であった。日本人の感性は昔から、非常に繊細であります。

西洋人と日本人では味わいの感覚が異なる。西洋的に言えば、スピードが何ノット出た、レースで勝った、パーティーをした、どこまで行った、そういう事になるのでしょうが、日本人の感覚では、結果もさる事ながら、過程の味わいというのがあります。大袈裟に言えば、その小さな部分に宇宙を見る。

ただ、特別に何かがあるわけでもなく、ただ、静かにセーリングしていても、その何かの味わいを感じる事ができるのが日本人です。ただ、あまりにも、普段の生活が西洋化し、いろんな物で埋まっている為、DNAに潜む感覚を思い起こすには時間もかかるかもしれません。しかし、確実に、結果では無く、味わいを重んじるDNAはある。

理論的にああして、こうしてという事も必要でしょうが、それだけに終わらないのが日本人ではないかと思います。ただ真っ直ぐ静かに走るだけでも、何かを感じる事ができる。どこかに行かなくても、スピードが出なくても、人に言える何かがあるわけでも無いのに、ただ味わってきた。何かは解らないにしても、何となく心地良さを感じてきた。そういう事もある。たまには、おしゃべりをやめて静かにただ、セーリングしてみるというのも悪く無いかもしれません。エキサイティングなシーンだけが面白いわけじゃない。

理論を少し脇に置いて、味わいを意識してみる乗り方もある。そんな時は、スピードが何ノット出ているかも気になら無いし、何も気にならない。そんな時もありますね。かと言えば、良い風が吹いて、セールをセットして、良い走りを味わうという事もある。どちらも、味わってる瞬間は無の境地?
これがセーリング終わって、日常に戻った時、実に爽快であります。ここで、コーヒーブレイク。

味わうというのは結果では無く、現象を感覚的に捉えるという事でしょうから、これこそ遊びの極地かな?そうなったら何も気にならなくなる。もうちょっと引いた方が、出した方が、理論はそうでしょうが、味わいという点では、どっちにもある。セールがバタバタしていたら、気にはなりますが。

この味わいの為にも、やはり理論と練習は必要でしょうね。でも、理屈だけで終わるにはもったいない。ヨットにはもっと可能性があるように思います。

次へ          目次へ