第二十八話 推進力

エンジンを使って、スロットルを上げる。文明の利器らしく、ある程度は計算のできる移動ができる。それはそれで便利。文明の利器は人々を物質的に豊かに、便利にしてきた。とっても有り難い事です。計算が出来るので、人は次の事を考えて、のんびりなんかしてられない。もっと便利に、もっと豊かに、もっと仕事して、もっとあっちこっちに行く。文明の利器はそういう推進力の役目を果たしてきた。その恩恵を預かっているが為に、これで良いのか?なんて贅沢を言う。そんな事が言えるのは便利になった、豊かになったお陰かとも思います。

それはそれとして、せっかく豊かに、せっかく便利になったのですから、ちょっとだけ違う遊びがしたい。不便は嫌だが、視点を変えて、その不便さを遊んでみよう。豊かな生活があるからこそ、遊びに出来る。遊びで不便を体験してみるというのは、何と贅沢な。目の前にある、あの島へ行くのに何時間もかかる。否、風が無かったら到達する事もできない。そんな不便さ。風向きが悪かったら、真っ直ぐ直線的にも行けず、ジグザグに走って、直線の数倍の距離を走る。風が強すぎてたら、せっかくのパワーさえ捨てなければ、それを全部取り込む事もできない。第一そのエネルギーを蓄積する事もできない。そんな不便さを、遊ぼうかなんて気分は相当の贅沢です。

文明の推進力は我々を豊かにしてくれ、そのお陰で、自然という一見不便な推進力を遊びとして使う事ができる。昔は自然の力を利用して生活をしていたのが、今では遊ぶ事ができる。それだけ豊かになった証拠ですね。

では、その自然の推進力を、文明人らしく、うまい事利用して遊んでみる。揚力なんてものを発見した人はたいしたもんです。風を目一杯受けて走るのは効率が悪い。揚力を発生しない。そこで、セールの上を流す。どのくらいのカーブをつければ、適度な揚力を生み出すのか、ドラフトをあれこれと変化させて洋上の実験を行う。風に対する角度も同様。極めて科学的な実験となる。そうすると、ヨットマンは科学者になる。科学の目を持って観察し、いろんな実験を行う。どういう動きをするのか、科学者はその解を求める事に快を得る。

観察者であり、実験者でありながら、同時に結果は科学者の解と人としてのフィーリングを得られる。いかに数学的に解を得ても、このフィーリング無しでは、完璧とは言えない。でも、そのフィーリングはそこにいたるプロセスがあってこそ増幅されていく。つまり、乗せてもらっただけでは、同じレベルのフィーリングは得られない。自分が科学者になって、観察と実験を繰り返すプロセスが必要になる。観察と実験無しでは、自分で乗っても同じ事。

観察眼の鋭い科学者は小さな変化を見逃さない。そして実験を繰り返し、最大のフィーリングを得る事に成功する。目に見える賞賛は何も無いが、目には見えない、その人独自のフィーリングと味わいを得る事ができる。これは文明の利器でも何でも無い。文明の利器は物質的豊かさをもたらし、ここに至って、自然の推進力はフィーリングをもたらす。そのフィーリングも豊かさに違いない。
ここにきて、やっと物質と精神の豊かさの両方を手に入れる事ができた。

遊ぶという行為は、余裕の気分が無いとできない。少しの余裕の気分があれば、不便さを遊ぶ事ができ、その遊びで豊かにになり、豊かになればもっと余裕ができて、もっと遊べる。なる程、これは良い循環です。遊べば、豊かに、ストレスも無い。病気を心配するなら、遊ぶのが一番、健康の為に遊びましょう。年取ったんなら、もっともっと遊びましょう。健康の為ですよ。病気の心配してたら、病気になる。心の健康はひょっとして、肉体の健康より重要かもしれませんよ。

かくて、自然の推進力は我々の心を豊かにしてくれる。観察と実験とフィーリング、そんな事してたらぼける暇も無いし、頭は使うし、心も動く。こんな健康法はありませんね。遊んで、健康になって、そうなると何にでも意欲が出て、そして、いつも心は穏やかです。

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