第七十四話 感覚的帆走

さて、セーリングとクルージングを使い分けて考えますと、セーリングにおいて走るという事がいかに面白いかという事、或いは、本当に面白いのかという事が重要です。セールは車のアクセルと同じ、そのアクセルを操作したからと言って、車のように加速していくわけではありません。スピードの増加はわずかなもんです。ところが、人間の感覚というのはたいしたもんで、そのわずかな加速が何ともスピード感を生み出す。そのわずかを感じ取る事ができます。たったそれだけでも、快感になったりします。車ならスピードの変化にも気が付かないくらいかもしれませんが、ヨットなら、そのわずかな違いがちゃんと解る。人間の感覚は相対的なんでしょうね、たいしたもんだと思います。だから、ヨットのわずかなスピードであってもスピード感を感じ、興奮さえ覚える事があります。

セーリングは感覚の世界です。どこに行くわけでも無いので、自分の感性が刺激される。それしか無いとも言えます。でも、その感覚こそが遊びの最高峰なのかもしれません。それをいつもやっていますと、感性はもっと磨かれていく。微妙な変化さえも、自然に感じ取れるようになります。繊細なセーリングから豪快なセーリングまで幅は広い。その全てに、感性を刺激され、面白さを感じる。
走ったスピードは実際はたかがしれています。でも、繊細から豪胆まで、自分の感じる感性を遊んでみる。そういう遊びは他にあるでしょうか?どこかに行く遊びなら、他にもあります。しかし、セーリングは感覚重視ですから、自分の感覚こそが基準になる。

セーリングには理論があり、その理論の知識は必要です。その知識を得て、操作して、そして今、何を感じて走っているか?もっとスピードがほしいとか、面白くなってきたとか、スリル、ちょっと恐怖感を感じてきたとか。理論がいつも先行するわけではありません。自分の感覚が優先されます。
もっとこうしたら速くなると解っても、自分に恐怖感が出てくると、風を逃すかもしれません。それで良いわけです。その自分の感覚も経験によって進化していきますから、前に感じた恐怖感も今度は快感に変わる事があります。

退屈だった微風も、考え方によっては違う遊びができるかもしれません。いかにスピードを出すか、絶対的スピードでは無く、現状からいかに上げるかという興味を持つ事ができたなら、それも何かやりようがある。そうやって、ヨットというものが解ってくる。さらに、自分の感性がどっちを向いて、何を求めているかも解ります。そりゃそうでしょう、こんなに自分の感覚に神経を集中させた事があるでしょうか?そんなことを続けていたら、自分の感覚が解ってくる。自分の感覚が解るというのは変な話ですが、実際、自分の事は解らない事が多いものです。それが損得無しのセーリング遊びをやりますと、素直に解ってくる。それが何の意味があるのか?

意味などありません。何も無い。しかし、心地良いのです。自分の感性がどんどん解ってくるというのは心地良い。何を求めているか明確になると安心でもある。それは自分が何者であるかが解るという事かと思います。この何者であるかが、全ての源、何をしているかより、何を感じているかの方が重要で、この何を感じているかが全ての源かと思います。すると、セーリングは素直な気持ちで居られる。セーリングにはいろいろありますが、でも、トータルで楽、安心、そういうところに落ち着くような気がします。すると、おおらかになり、気になっていた事がつまらない事に思えたり、楽になる。そんな力がセーリングにはあると思います。多分、それは損得勘定が働かない、感覚に集中している、その感覚を遊んでいる。そういう所から来るのではないかと思います。

人はいつも何をするかを気にします。そしてその結果を気にします。つまり、今何を感じているかは二の次になるのではないでしょうか。結果が全てという考え方もありますが、ヨットで言うならスピードさえ出れば良い、どこかに到着すれば良い、そういう事になるでしょう。でも、重要な事はその行為の最中に何を感じているかではないか。心地良さか、或いは辛さか、或いは、もっと違う何か、微妙な感覚、そういうものが解るという事は、本当はとっても大事な事ではないかと思います。セーリングはそういう感覚を大事にする遊び、そして、セーリング中にそれが意識されると、本当は自分が何を求めているかが解ってくるのではないかと思います。辛いのに何かを成し遂げようとしているのか、或いは、快感を感じているのか、何かをしなければならないという事では無く、素直に解ってくるという事で充分に価値があると思います。

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