第八十二話 遊びには美しさを

高度に発達した現代においては、いろんな物が整っています。必要な物は殆どある。求めればきりがありませんが、たいていの物は既にここにあります。そういう時に必要な物は美しさではないかと思います。レースに勝つ為のヨットなら、速い事とレーティング上有利という、勝つ為の要素が重要になりますが、一般的に我々が求めるセーリングやクルージングにとって、必要な事は美しさではないかと思います。我々が求めるヨットはたいていは既にあります。世界一周したければ、既にそういうヨットがあります。後は、何を求めるか、やっぱり美しさではないかと思います。

求める用途に対して、それができるヨットであれば、何でも良いという時代ではありません。できて当たり前、その上美しくないといけません。外洋艇としての美しさ、デイセーラーとして美しさ、クラシックからモダンまでいろいろありますが、それぞれの形で、美しさ程、楽しいものは無い。それは特に遊びで使われるからです。遊びは心の運動のようなもので、遊びであるからこそ、その心の運動を楽しめる。その心の運動の重要な要素のひとつは美しさにある。

本当は美しさもいい加減なもので、時代とともに移り変わっていきますが、でも、いつの時代にも少しも衰えを見せない物は、ずっと続いて行きます。最新のデザインもそれが何十年後にでも美しさが衰えないとしたら、それはクラシックとして残っていくでしょう。ヨットは物ですから、永遠はありえない。でも、デザイン美は残ります。それ程、人間は美しさにはこだわっているのではないか、そういう気がします。

フェラーリだ、ポルシェだ、と言いますが、それらが性能が良いだけでは人は求めないでしょう。性能が著しく劣るのは論外ですが、美しさは少しぐらい欠点があっても、それをカバーするだけの力があります。美しさは形が美しいと感じるのはもちろんですが、それだけでは無い。密度と言いますか、何か凝縮したような感じを受けます。ぼ〜としていない。きゅっとしまってる。密度の濃さを感じさせます。こういうヨットはたいてい構造的に、性能的にも良い。

均整の取れた船体。これを壊して、キャビンを必要以上に大きくするなんてのは論外。どんなに居住性が良かろうが、きっとこれは長続きはしないと思います。何故なら、そこに住むわけじゃないし、これは遊びだからです。高すぎるフリーボードは醜いし、広すぎる幅も醜い。一見きれいなヨットも密度が薄いのも面白く無い。美しいというのは、何もピアノフィニッシュなんかではありません。均整の取れたトータルな美しさです。そのヨットのコンセプトにおいて、それらしい美しさを持ったヨットです。

人の感覚は千差万別、ですから、自分が魅かれる美しさであるべきだと思いますね。大きさよりも美しさは大切です。自分が美しいと感じたら良いわけです。そこに惚れこんだら、後は、大切にして乗らないんじゃなくて、どんどん乗って、使い込んで、そして、いつもきれいに磨いてやる。壊れたらきちんと修理してやる。そんな事してますと、きっと心も体も運動して、心地良い疲れが感じられ、一杯のコーヒーが格別にうまくなる。美しさに神経過敏になってはいけません。どんどん使い込んで尚美しくなければいけません。使わないでただ美しいだけでは、そこにオーナーの存在が無い。
それでは完成されない。ヨットの美しさと、使うオーナーの存在が感じられてこそ完璧となる。

オーナーが大事にして乗り込んでいけば、そうでもなかったヨットが美しく蘇っていく。そういう事もあるでしょう。やっぱり、オーナーが乗って、乗りまくって、可愛がられているヨットは美しい。

洋服だって、着れれば良いわけじゃない。車だって乗れれば良いわけじゃない。我々の世界はそんなもんじゃない。役に立って、そのうえ美しくないといけません。そこに遊びがある。そして、その美しさにはいろいろなタイプがある。その役目をきちんと果たす。その上、その役目をこなす物として美しさがある。そういうのはたいてい、能力面においても優れている。

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