第七話 高機能と肉弾戦

最近の機械は高機能ですね。車もそうですし、パソコンはもちろんですが、携帯電話、テレビ、デジタルカメラ等々、その機能性のすごさは驚くばかりです。本来の機能は当然として、そのうえにいろんな機能が上乗せになてっいます。そして我々もそれが当たり前のように思っていますし、その機能の違いで選択をします。付加価値という奴ですね。便利だし、あれもこれもできる。どこでもできる。ですから、携帯電話なんかどこでもやってます。

一方、格闘技なんかも人気が高いですね。それから野球、今流行りのサッカー、そういうのも人気が高い。それらは全く高機能であるとか、便利とかでは無く、プロの日々の練習の上に積み上げられた高い技術、肉体での戦い、自然のままです。それらにきっと感動を覚えるのでしょう。人間にはそれが必要なんだと思います。

高機能で日常の生活を潤す。でも、それだけじゃ物足りない。便利なだけじゃ物足りない。それで何か心を揺さぶる何かがほしい。それが野球やサッカー、K1とかボクシングとか、生身の人間の動きや技、造られていない自然の何か、そういうものから感動や興奮を得たくなるんだと思います。スポーツに限らず、音楽、絵、陶芸、ダンス、そういう芸術も同じでしょう。手芸や俳句ひねったりもそうでしょう。機械に頼らない、機能を追及しない、人間の生身ができる事、そこに感動が生まれる。

つまり、人間は物によって便利さ、快適さを享受しながら、一方で、何か自然の感動や興奮を求めている。この両方がバランス良く成立しないとストレスは大きくなる一方ではないでしょうか。仕事なら効率を望む、生活なら便利さを望む、でも、その他の遊びには便利よりも、何か心をときめかせる何かがほしい。それが自分でできないなら、プロの技を楽しむ。

でも、もし、それが自分でできるなら、また違った感動があるでしょうね。つまり、ヨットは遊びで、何かしらの感動を求めている。興奮やスリルや何か心が動く事を本来は求めている。そこに完璧に便利な高機能という物が出現した時、普段の生活がそうだから、全く違和感無く、受け入れる事ができます。気にもなりません。でも、便利さを一旦受け入れると、そこから脱出して、何かをしようと思う気が薄れてきます。せっかく、今快適なのに、何もそれをあえて捨てて海に出る事は無い。出ても、本当に快適な時だけになる。知らない間に、そう慣れてしまうのではないでしょうか。

本当は自分でいろいろやって、動かしまくって、遊びたいのに、何故か快適な中に埋没してしまう。
人はそういうもんだと思います。でも、そうやっているうちは、本来求めた遊びが、別の遊びになってしまい、決して心は動かない。遊びは心を動かしてやる事じゃないでしょうか。その為には、他人の肉弾戦を見るか、或いは自分の肉体を使うかどちらかではないかと思います。これも他人のを見ていた方が楽ですが、せっかくヨットやるなら、自分の肉体を動かした方が恩恵はある。

金に物言わせて、クルーを雇って、自分はオーナーズチェアーにふんぞり返るのもひとつの方法ですが、自分で舵握った方が心はもっと動くと思います。本来、そうしたかったはずではないかと思いますね。そうすると、ヨットはシンプルの方が良いという事になります。だから何も要らないとは言いません。どこまで要らないかは自分で決める事だと思います。自分で、これも要らないと思えたら、その分、はずした分、自分が動かねばなりません。また、その分しんどい事にもなる。でも、それが良いんです。それをしにきたわけですし、それが心をきっと動かしてくれる。

キャンプに行く時、キャンピングカーで行くのも良い。自分達で料理作って、みんなで泊まる。それもおおいに結構です。心が動きます。それを今度はテントはって、火を起こして、そこで料理するとなりますと、しなければならない事はもっと多くなる。でも、それが良いと自分で思えた時、キャンプはもっと面白いものになる。

現代に便利と高機能と快適は必需です。それを遊ぶ時だけ、どれだけ排除できるかが、ポイントではないかと思います。ただ、ポイントは自分で決める事です。いやいやながら排除しては何にもならない。日常生活は高機能を満喫して、快適に過ごしましょう。そして、遊ぶ時はできるだけ自然に遊ぶ。そうすると、満天の星空を眺めただけで、感動します。セーリングしているだけで面白くなります。こういう使い分けを考えたらいかがでしょうか?これは一種の冒険です。冒険にあまりにも便利さを求めると、冒険は冒険で無くなります。以前、ノルディックフォークの造船所のおやじに言われた事があります。”何故、何でもつけないとセーリングできないと思うのか?”ちょっと考えた方が良いかなと思わせられました。

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