第九十一話 面倒くさい事


      
セーリングの操作は面倒くさい? それを敢えてやりましょう。その面倒くささが面白さに変わります。ボタンひとつで全部やってくれるのが面白いでしょうか?面白さって、結構面倒くさい処にあると思います。だから、面倒くさがりは面白さを味わえない。

野球のゲームが、ただ投げて打って走ってという単純な点取りゲームだけなら面白いでしょうか?そこにはいろんな面倒くさい深い内容があります。あらゆるスポーツもそうですし、また、絵を描く時、絵の具を塗りつけるだけの単純な世界なら面白いでしょうか?陶芸にしても、写真にしても、あらゆる物が面倒くささを内包しています。面白いなら、面倒なんて誰も感じません。もちろん、程度問題もありますが、考えたり、工夫したり、感じたりしているから面白い。これらを手放す時、無味乾燥の世界しか残らないのではなかろうか?

世の中、その面倒くさい事をやる人と拒否する人の二種類に分かれます。そして、多くの方々は後者に属する。だから、表面的には楽しんでいるようで、本当に面白さを感じている人は少ないのではなかろうか?そして、後者の求める楽しさは、解りやすい便利さを求めてしまうのではないかと思います。しかし、その便利さは求めても求めても面白さにはならないと思います。

何故、面倒くさいと思うか? 恐らく、行動する前に頭で考え過ぎるからでは無いでしょうか? 実際にセーリングして、操作して、心がセーリングと伴にある時、自分の操作でヨットの動きが解るようになります。解ると、面倒だとは思わなくなる。むしろ、それが面白さとして感じられる。

人間の感じる面白さって、結構面倒くさいんですね。でも、それだけ人間は単純では無く、複雑にできているという事ではないかと思います。ところが、面白いもので、この面倒くささを乗り越えて、面白さを味わいつづけていくと、今度は単純な処にも面白さを見出す事ができるようになる。しかし、これはより深い処で感じているんだろうと思います。感性がより繊細で鋭敏になってるからだろうと思います。

セーリングを堪能する事は、この面倒くさい事を引き受けるか引き受けないかにかかっているのではないでしょうか?

        

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