第八十四話 キャビンの誘惑

でっかいキャビンに快適装備、誰かが言ったマンションの一室の様な部屋がヨットにある。誰が考えても、魅力を感じる。何故なら、ヨットに乗った事が無くても、キャビンなら誰でも想像できるから。まして、ヨットの中なんて、そのエキゾチック感は魅力的であります。

しかし、そんなキャビンも、しばらく時間が経ってしまえば、1シーズンが終わるのを待つまでも無く、最初のエキゾチック感は薄れてしまう。そのうち、誰かを招待した時ぐらいにしか役に立たなくなるかもしれない。せめて1シーズンぐらいなら良いが、何年も、何年もそのまま続くとしたら、もはや魅力は感じられなくなる。何故なら、変化が無いから。その快適な広いキャビンは、変化せずに、相変わらず快適なままだから。

どんなに快適であろうと、変化しないものは面白さに欠ける。残念ながら、人間というものは、そんなものだろうと思います。慣れは良いが、反面、慣れは魅力を感じなくさせる。だから、いつまでもキャビンにしがみつく事はできなくなる。ヨットに設置された便利装置にしても同じで、そこに変化が無い限り、魅力は薄れる一方です。だから、変化をつける為に、とっかえひっかえ、違うゲストを招待するか、もてなし方を変えるか、いずれにしろ、自分で変化を創るしかない。

自宅は寛ぎの場、ヨットも寛ぎの場で良いんだろうか? ヨットは遊びの場であった方が良い。自宅と同じじゃ面白く無い。別荘地はどこも閑古鳥が鳴いている。自宅と同じ寛ぎの場にしてしまうからではなかろうか?別荘は遊びの場、自宅とは違う。そこで何か面白い事を味わった方が良い。自宅とは違う何かがほしい。

別荘を求めるのと同じように、ヨットを別荘と見ると同じ結果になる可能性は高い。だから、でっかいキャビンを持っても良いが、何か変化ある面白いものがあった方が良い。それをたっぷり味わってこそのキャビンであり、キャビンが主役にはなり得ない。

簡単な話、セーリングという変化があるし、その為のヨットであるし、それをたっぷり味わう方法を考えた方が良い。ジョイスティックで簡単に出し入れしたり、電動ウィンチで楽にセールを上げたり、或は、メインファーラーにして楽したり、これらは便利であり簡単でもある。それはそれでおおいに利用して良いし、それで、より気楽にセーリングができるのなら良い。しかし、重要な事は、セーリングを意識する事ではないか? セーリングにこそ変化があるのだから。

セーリングには、自分の進化をもって、セーリングを成長させる事ができる。上手い人のセーリングは下手な人とのセーリングとは違う世界を持っている。つまり、永遠にセーリングの世界を成長させる事ができる。この変化は、自分が上手くなる事によってもたらされる。こんな面白さが他にあるだろうか?その変化は面白さ以外なにものでも無いのではなかろうか?ちょっとした事でも、自分の理解が深まったり、できなかった事ができるようになったり、感じなかった事が感じれるようになったり、面白さの中でも最上ランクになるのではなかろうか?

でっかいキャビンが人を誘惑するもんだから、セーリングから意識が遠のいてしまう。もっと気楽にセーリングを楽しんでさえいたら、もっと面白い世界を見れたかもしれないのに。だから、今でも遅くない。セーリングに意識をおいて、その変化を楽しもう。良い事も悪い事もあるが、それら全部を引き受けていけば、ヨットは本当に自分のものになる。

誰もが考える事は、ある魅力的な場面という事が多い。しかし、時間は流れて過ぎて行き、止まる事が無い。止まらないなら、その魅力的場面も過ぎていく。時はいつも流れて、変化していく。つまり、我々の本当の理想は、流れる変化そのものの中にある必要がある。時が過ぎる事によってもたらされる面白さでなければならない。時間が停止した様な場面では、すぐに終わってしまう。
ああだったら面白そう、こうだったら楽しそうと、我々が想像するのは、大抵は時間が停止している事が多い。何故なら、それはある一定の場面に過ぎないから。しかし、もし、時が流れる事によって起こる変化を想像するなら、面白さは尽きない。少なくとも変化は尽きない。時は決して止まる事が無いから。だから、時間の変化に対して、成長する事を想像する、その成長によってもたらされる変化を想像するのが良いのではなかろうか? 楽しそうな一定の場面を想像すると、停止してしまう。時間は過ぎるのに、時間を止めるような想像をするから。キャビンなんかはその典型ではなかろうか?

ついついキャビンの誘惑に乗ってしまった。でも、そのヨットにもセーリングがある。ちょっと視点を変える事で、時の流れを楽しむ事もできる。

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