第六十話 本質を探る?

ヨットの本質って何だろう? それが何であるかは別にしても、多くのヨットが、オーナーによって、十分使われ、みんなが楽しんでいるのなら、本質は何かなんて事はどうでも良い話です。しかしながら、一部の方はおおいに楽しんでおられますが、多くの方々はそうでもなさそうです。

私の見る限り、動くヨットは決まっている。使われているヨットは決まっている。その様に見えます。それも少数派でしょう。それで良いのか?と考えてしまいます。ひょっとしたら、選択が間違っていたか、或は、使い方に問題があったのか?

この点についてはいつも考える処であります。どうやったら、多くの方々が楽しむ事ができるのか? 多分ですが、現在のビッグキャビンのヨットを最も楽しむ方法は、週末にヨットに泊まる事かもしれません。欧米人がそうであるように。毎週末でもヨットに泊まっていれば、接触回数が多くなって、たまには、ヨット出してという事もあると思います。しかし、その前に、週末に泊まる事が楽しくなければなりません。そういう使い方が日本人にも出来るのか? ビッグキャビンヨットが多い中、それが主体になるのか? もし、そうなら、とっくにそうなっているのではなかろうか? これも一部の方々なんだろうと思います。

それで、日本人のメジャーの使い方は何か?という事を考える次第です。クルージングもレースもあるわけですが、最も楽しめる方法は何か?

それで思う事は、気軽である事、楽しい事、面白い事かもしれません。ところが、楽しい事を求めますと、イベント的になり、イベントはしょっちゅうはありません。ですから、特別な何かを楽しむというより、日常的な何かを楽しめるようになれればと思います。その日常的何かは、自分で起こすしかありません。でも、行動すれば、良い事ばかりではありません。となりますと、楽しい事を求めるのは間違いで、面白い事を求める方が良いのではないでしょうか? すると、その中には時々楽しい事もある。

その面白い事とは、レースかもしれないし、セーリングかもしれない。日常的に気軽にできる事であり、それが面白い事。その面白さの為に必要な事は、進化する事。何かを目指す事。そこに日常の求めるものがあれば、そこから面白さを手に入れる事ができるし、時々楽しさも訪れる。面白さとは、楽しさもあれば辛い事もある、両方を受け取って、尚且進歩がある事ではないかと思います。進歩があるから辛い事も受け入れられる。おまけに楽しい事もある。それで、御勧めはセーリングをスポーツする事だと思います。

セーリングに向上があれば、工夫したり、いろいろある事を面白く感じる事ができると思います。これが日本人の基本的な乗り方の軸にならないか? すると、今日のセ−リングはどうだったとか、あの時はこうした方が良いんじゃないかとか、そういうヨット談義も出てくるでしょうし、たまにレースに参加する事もあると思います。ピクニックセーリングも楽しめます。でも、レースもピクニックもイベントです。レース主体にされるなら別ですが。

楽しむというのは静と動があります。温泉にでも入ってとか、一杯飲んでとか、そういう事は静だろうと思います。そしてヨットは静と動の両方になります。ヨットに泊まるのは静、セーリングするのは動です。その静を日常的に楽しめるか? でなければ、動を楽しむ事になります。動を楽しむ最も気軽な方法はセーリングをスポーツする事ではないかと思います。静が軸になったら、動を楽しむ事は非常に難しくなるのではなかろうか? でも、動を楽しめば、静を楽しむのは簡単です。

ヨットを出せばセーリングが始まります。どんな操作をしようが、ヨットは走る。そこに少し操作が加わって、意識がセーリングにあるなら、変化が解ります。うまくいったり、そうではなかったり。それで、今度はうまくやろうと思い、実際そうできるようになると面白いわけです。自分のレベルがどんなであれ、向上する処にこの面白さを味わう事ができます。そして幸いにも尽きる事がありません。それで、向上していく中で、何とも言えない至福のセーリングにも出会う事があります。それらを体験していくと、ピクニックもレースも泊まりも全部楽しめるようになる。楽を求めて入ると、面白さには到達できないのではなかろうか? そして、残念な事に楽はたまに楽しいが、面白いわけじゃないと思います。

スポーツだからと言って、激しくやる必要は無いと思います。あくまで自分のレベルでスタートです。意識さえセーリングにあるなら、穏やかなセーリングであっても、必ず変化はある。そこに気づくのがスポーツセーリングだと思います。

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