第二十六話 孤独を楽しむ

孤独という言葉は何か寂しいイメージがあるかもしれない。印象としてはマイナーなイメージです。しかし、本当はもっと孤独を楽しむべきではないかと思います。物事には常に、良い面もあれば悪い面もあります。孤独にでさえ必ず良い面がある。

考えてみれば、仕事をすれば誰かと付き合い、家に帰れば家族と付き合い、常に誰かが居て、ひとりになるのはトイレぐらいだろうか? 自分以外の誰かが居れば、それが家族であっても、何らかの影響を与え合う。そうやって何十年も過ごしてきたわけですが、本当はもっと孤独な時間を持った方が良いのではなかろうか? それは極端に走る事では無く、時々、孤独になってみるという事であります。孤独をもっと前向きに捉えるという意味です。

ひとりで居る時、誰からも影響される事は無い。その自由な時間に何をするかは自由ですが、ひとりである事を有意義にする為に、いろんな可能性が考えられる。ひとりになった時、何もする事が無いから孤独感を味わうのかもしれないが、孤独であればこそできる事もたくさんあるのではなかろうか?

ひとりになると集中力をより高める事が容易になる。物事を深く考える事もできる。誰かが、考えるな、感じろと言ったが、それは時と場合による。物事を深める時、それは孤独になる事が最もその環境として相応しい。誰かと話す事は重要だが、それと同じぐらいに、ひとりになる事も重要ではなかろうか?

シングルハンドは万能の乗り方です。とは言っても、万能だからという理由だけでは無く、孤独になれるという意味もある。時々、ひとりでは乗りたくないという方もおられますが、ひとりは単なる孤独では無く、使いようによっては、深く掘り下げる事もできる。

シングルでセーリングに集中する時、それが激しいスポーツだろうが、ゆったりしたセーリングだろうが、その自分の行為に集中できる時、表面上のセーリングを楽しんでいるだけでは無く、深く楽しんでいる事になると思います。ここで、重要な事は、集中している事です。

要は、孤独が集中力をより深めるようになる。集中力が高まると、そうで無い時とでは物事に対する捉え方も違えば、深さも違う。ただ、その集中力を注ぐ対象が必ず必要で、それが無いと、人間が考える事はろくでもない事が多くなるかもしれません。

従って、良い対象はデイセーリングにおけるシングルハンドなのであります。同じセーリングであっても、いろいろあります。ゆっくり走っても構わない。もっとスポーツしても構わない。兎に角、集中力を発揮して、そこに集中する事が必要だろうと思います。

わいわいやるのもおおいに結構なのですが、でも、やはり時々は孤独になって、集中力を持って、セーリングに当たると、それはまた別の世界を創りだす。ヨットが解る、セーリングが解る、海が解る、これらは、頭脳の理解と感覚的認知の両方を伴って、深く自分の中に入り込む。問題はそれをいちいち評価してしまう事ではなかろうか? 陸に戻った途端に、それがどうだったかを評価する。それが間違いの素。

客観的な観察による進化は良いのですが、良いか悪いかという評価はしない方が良い。何度も、何度もそうやってセーリングをする事で、ミクロ的な見方から、長いマクロ的見方を持つようになる。そこに必ず進化が生まれ、これまでには無い面白さを得る事もある。

簡単に言えば、何も考えずに、黙ってシングルハンドセーリングを味わうという事、それは孤独を楽しむ事、孤独を面白さにまで引き上げる事。そこまで引き上げる事ができれば、それこそ万能になるのではなかろうか?

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