第四十六話 ガラパゴス

南米のエクアドルにガラパゴスという島があり、ダーウィンはそこの動物の進化が独特な進化を遂げていると言った。この島以外からの影響を受けなかったから。そういう意味では、日本も島国、世界を見れば、日本自身もガラパゴス的な進化をしてきたかもしれない。それは、目に見える部分では無く、文化的な気質の問題かと思います。

他国の影響無く、独自でありながら、それでも高い文化を誇ってきた。これは日本人という気質がいかに高い気質を持っているかの証明でもある。しかし、その気質の中に、謙譲の美徳という日本人特有な気質もあり、それが出しゃばる事を良しとしない文化であり、それを海外から見ると卑屈にも見えるらしい。本当はそうでは無いのに。でも、海外には解るまい。言い方を変えれば、世間様に遠慮しながら生きてきた。でも、それを美徳までに引き上げてきた。

国内では謙譲の美徳を発揮し、海外に対しては自己主張をする。そういう使い分けはかなり難しい。相当意識していないとできない。第一、議論という事からして慣れていない。だから、TPP議論なんて、どうなるか?

だからと言って、今更、鎖国なんかはできないわけで、難しいが使い分けるしかないのかもしれません。謙譲の美徳を理解してもらおうなんて思わない方が良い。交渉には自己主張しか無い。世界のルールがそうだから。でも、国内でそれをやると物事がうまくスムースには行かなくなる。やっぱりガラパゴス。

ヨット遊びは極めて個人的な遊び。そこに自由を求めるのは自己主張。やっぱり、欧米の文化であります。だから、ここに馴染めない。よって、急速に広がる事は無いのかもしれません。しかし、日本文化も少しづつ変化してきている。欧米程では無いにしても、個人が尊重される。尊重されるのは良いけれど、個人の方は、他人や世間を全く気にしないという処まではいたっていない。多分、そうはならないかも。だから、隣と同じヨットだと安心できる。

でも、そこでもう一歩進んで、自己主張をする人達も居る。最も楽しんでいるのは彼らではなかろうか? 他人がどんなヨットに乗ろうが気にしない。自己の面白さを追求するのみ。所詮、ヨットはそういうものであろう。

ヨットは極めて個人的な遊びですが、日本的、ガラパゴス流の使い方を独自に模索し、自分達のものと出来れば良いかと思います。何も、欧米流に合わせる必要は無いし、無理して合わせれば違和感も残る。ヨットだからこそできる事であろう。

一部のレース好きや、クルージング好きは別にしても、一般的な使い方の提言として、セーリングを中心とする事を言ってきました。そのセーリングにも、各人によって違いはあるかと思います。しかし、違いはあれど、セーリングを楽しむ事を中心に据えて、その他の事はサブ的、合間を埋めるもの、アクセント、ちょいとしたイベントとして織り交ぜていく事を提案してきました。 ちょっと気楽に出して、ピクニック的セーリングを味わう事から、真剣に集中したセーリングまで、上手い人も、初心者も、セーリング自体を楽しむ事はできる。しかし、いかんせん、天候やその他の事情もある故、そういう時には、他の事を楽しむ、臨機応変さ、でも、中心はセーリングという事です。

そうしますと、セーリングというひとつの目的が設定されます。誰もが、上手くなりたいと思う。それで、ヨットを学び、セーリングを学ぶ。長年かけて、自分のレベルをゆっくりでも良いから上げていく。それによって、高いレベルへと移行し、そのレベルでのセーリングを味わえる。この目標設定がなされればこそ、日本人気質としては、ある種の充実感をもって、長く取り組む事が可能なのではなかろうか?

ガラパゴスだろうが、何だろうが、楽しく、面白く、充実感を感じれるのであれば、それに越した事は無いと思います。時々、でっかいキャビンは不要とか言ったりしますが、でっかいキャビンが悪いわけでは無く、そのでっかいキャビンをうまく使えるのかという事であります。先日お伺いした話は、オランダではヨットに住む方も多く、住民票もヨットにする事ができるそうな。そんなお国柄とは違います。これはオランダだけでは無く、欧米の一般的事情を物語るお話かと思います。

国によって事情は違う。また、個人によっても事情が違う。ヨットは極めて個人的。ならば、個人の好み、事情に合わせるのが良い。個人のガラパゴス化であります。ヨットは極めて個人的、だから日本ならではのガラパゴス化、おおいに結構ではないでしょうか?

次へ       目次へ