第四十五話 分析

何かをする時には、調査をします。それを分析して、理論を組み立てる。それはそれで正しい手法だと思います。正しいと思うと、それが広がります。しかし、この分析するという理系的考え方が隅々にまで浸透していきますと、弊害を生み出す事もあるのではないかと思います。

分析は客観的な答えを出そうとする行為であり、それは主観的は間違い易いという前提があるからこそでは無いでしょうか?だから、客観は素晴らしいとなるかと思います。しかし、この分析と客観が万能であるか否かでは無く、これが蔓延すると弊害を産み出すのではないかという事です。
例え、その分析と客観が常に正しいとしたとしても、問題はそこでは無く、隅々にまで蔓延する事が問題ではなかろうかと思う次第です。それに、客観的分析は完全どころか、えてして人間の情などは加味されていない事が多い。

例えば、セーリングという事に対して、ある分析を試みます。コンピューターを使って、様々な分析をし、答えを得ます。そういう事をどんどん追求していく事も、進化のひとつですから、必要な事であると思います。

しかし、一方で、使う側の立場としては、別な側面を考える。分析的にデータ的に良いとされるヨットではあるのでしょうが、使う側の立場としては、主観的な部分が大いに入った方が良いと思います。直感的判断なんかもなされた方が良いと思います。それは一種の緩衝材みたいなもので、分析と分析の間をうまく利用する為の、ノウハウみたいなものではないかと思います。

これは、どちらか一辺倒では無く、バランスの問題で、分析を無視すると、とんでもない事になるかもしれない。そういう意味では主観は頼りない。でも、客観は頼れるかと言いますと、人間という極めて曖昧な媒体を介在するわけですから、人間は機械では無いので、これもうまくいかない。それで、両方をバランス良く取り入れる方が良いだろうと思うわけです。

それは、多分、客観的データの利用と、その他に、美しいとか、気持ちが良いとか悪いとか、怖いとか、そんな情緒を加味する事ではないでしょうか?それが人間的であり、それが楽しさや面白さであり、特に、日本人が持ち合わせる情緒を大事にする事は我々が日本人である限り、居心地の良さはここにあるのではなかろうかと思います。

世間の評判は、どちからというと、分析的になるかと思います。何故なら、その方が語りやすいからです。話をして通じるからです。でも、それは初期段階であり、それが浸透していくうちに、日本人的情緒が加わっていきます。それが日本人が日本流にアレンジして昇華するという事ではないかと思います。

ヨットについて言えば、まだ昇華しきれていないのではないか? それはこれから起こるのではないか? 欧米文化であるヨットに触れて、何と無く使って、多分、これから分析が始まるのではなかろうか? 否、分析は終わったのかもしれません。これからは、情といかに整合性を取るか?

誰かが言いました。あらゆる物の価格を知ってはいるが、その価値は知らない。これからは、その価値を見出す必要があるのかもしれません。欧米人は既に欧米人としての価値を見出しています。彼らが生み出した文化ですし。しかし、我々は、日本人としての価値を見出す事になります。やっぱり欧米人の価値では、居心地が良くなかった?

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