第九十一話 セーリング道

大袈裟な言葉に聞こえますので、使いたくはなかったのですが、まあ、それほど大袈裟な事では無く、前話の流れからそうしてしまいました。

さて、ここで言いたい事は、セーリングを意識しましょうという事で、それを根底に持って、簡単に言うなら、セーリングをより良く知って、上手くなりたいという意識を持つ事です。セーリングにおいて面白さを得ようとう事で、それさえ意識しておけば、それ以外の事もどんどん楽しみます。それが根底にあってこそ、宴会をしていても、ピクニックしていても良いのではなかろうか?

例えば、宴会やピクニックのみでは、どこかしら、いまいち的な感じがあるのではなかろうか?楽しいには違い無いのですが、でも、何か満足感的なもの、充実感みたいなものが薄いのではなかろうか?だから、それが稼働率とも関係してこないか?

それを満たすのが、宴会やピクニックしていても、意識の底流にはセーリングを学んで、もっと知りたい、上手くなりたい等の意識があって、実際に、たまにではあっても、真剣にセーリングしたりする事で、そこが埋められるのではなかろうか?

何でも真剣にやったり、真面目に取り組んだりして、勤勉な日本人と言われます。仕事だって一生懸命ですから、そのあたりは欧米人とは違うニュアンスを持っています。無理しているのでは無く、そこに生き甲斐を感じたりするのが日本人であります。

ですから、大袈裟な言葉ではありますが、あえて言えばセーリング道であります。但し、重要な事は上手いか下手かでは無く、今の状態から、より知りたい、より上手くなりたいという意識だろうと思います。それがあるからこそ、宴会もピクニックも心地よく遊ぶ事ができるのではなかろうか?

何故こうなるのかと考えますと、快楽のみで良い場合は、自分が完全に受身で、誰かに接待されているような時ではないでしょうか? 飲みに行ったら、お店の方が世話をしてくれます。温泉に行ってもいたれりつくせりです。自分から何かをする必要はありません。

しかし、ヨットの場合は自分が主体になります。自分が動いて、自分を楽しませる事になります。そういう時、多分、快楽プラスアルファーを求めてしまうのではなかろうか?
例えば、コーヒーをいれます。どこかの喫茶店なら、うまいかまずいかで良いのですが、まずければ、二度と行かないで済みます。それが、自分で入れるとすると、どうせなら旨いコーヒーを飲みたいわけです。それで、うまいコーヒーを入れたいという欲求がでてきて、どうすればうまいコーヒーがいれられるかと思って、自分が徐々に上手に入れられるようになったら、それなりの満足感がでてきます。ある物事を、頻繁に自らが主体になって行う時、ただ楽しいかどうかだけでは無くなるような、そんな気がするのですが?ヨットはまさしくそういうものではなかろうかと思います。

だから、ヨットをするなら、セーリングやクルージングに、もっと知りたい、上手くなりたいという気持ちを持つ事が、ヨットライフに充実感を持つ事に繋がっていくのではなかろうか?そして、そういう気持ちがあればこそ、実際に、知識が増えたりします。それが根底の支えになるのではなかろうかと思う次第です。

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