第十七話 刺激

我々は常に刺激を求めています。そして、その刺激は徐々に、大胆になり、より大きな刺激で無いと、感じなくなる傾向にあります。ですから、初心者の頃に、出すだけで面白かった事が、普通になり、それでは満足しなくなります。それで、新たな刺激を求めますが、或いは、退屈感から、ヨットに乗らなくなります。

ある方は、どんどん突っ込んで刺激を求め、また、ある方は、別の分野に刺激を求める。ある事に集中していくか、次々に変えるかかのどちらかです。この事は、感覚が鈍感になっている事によるかと思います。

初めてクルージングに行った先は、新鮮で、何もかもが面白い。しかし、二回目ならそうでも無い。三度目ともなるともっと薄れていきます。初めてのセーリングでは、面白いと感じても、何ども重ねるうちに、感覚が刺激を受けにくくなる。もちろん、セーリングの変化はクルージングの行った先よりも、感覚がより刺激されますから、数回のセーリングで飽きる事はありませんが、それでも、鈍くなる事には違いない。

面白さを失う原因は、この鈍感さにあるかもしれません。何もかもが変化している世の中で、ある程度知ってしまえば、そこれ以上では無くなる時、もう変化を感じ取れなくなる。刺激を感じ取れなくなる。だから、退屈になる。退屈では無いにしても、面白さを感じられなくなる。

より面白さを見出すには、集中力を発揮して、より細かい変化でも感じとる事が必要なのかもしれません。つまり、より突っ込んで行くやり方です。でなければ、違う種類の刺激を求めるかです。それでも、新たな刺激も、やがては退屈になる。

人間の特性として、そういう慣れというものがある為に、良い面もありますが、反面において、退屈になる事もあります。ですから、そこを意識して、より細かい変化に気づけるように、より集中したセーリングが必要かもしれません。しかも、理想的には、それが自然にできるようになるという事です。そうすると、より、変化を多く感じますし、それは刺激です。その刺激は体感的な事もありますし、知識として知る事でも刺激になる。

便利な社会は、我々の感性をどんどん鈍くしているかと思います。だから、次から次に、新たな刺激無しでは、退屈でしょうがない。昨今のテレビゲーム等々、そのソフトメーカーは急速な発展を遂げていますが、まさに、最も簡単に、刺激を受ける事ができるからではないかと思います。飽きたら、また別なゲームをすれば良い。

古来より、日本人は感性豊かで、自然の音とか季節の変化とか、そこにある種の感覚を持ってました。それらは、現代の我々からして、非常に繊細な部分です。それがいつの間にか失われてきています。より大きな刺激を求めるようになりました。

ヨットに乗って、エンジンをカットして、波の音を聴く。最初は良いなと感じたものが、やがては、そんな事も忘れていきます。もっとスピードを、もっと何か刺激をと無意識のうちに求めます。でも、それではきりがない。

そこで、もう一度、日本人の繊細な感性を取り戻すべく、ただ、黙して、何も考えずに、そこに浸ってみるという事を意識してみてはどうかと思います。より大きなものから、より小さなものへ。より小さな変化を感知できるようになると、感性が研ぎ澄まされています。それによって、セーリングをどう感じるか?新たな発見があるのではないか、と思うのですが。

微妙な舵操作が引き起こす微妙な変化。それが分かると、案外面白い。大きな変化では、誰もが気づきますが、微妙さは分かる人にしか解らない。それが感じられたとしても、別になんてことは無いのですが、でも、日本人が持つ繊細さを取り戻し、便利と面白さを分別し、何か、欧米人にはわからないかもしれないが、日本人としての感性が取り戻せるのではないか?

それで、日本人的セーリングの仕方として、セーリングを繊細に乗る。これをお薦めしたいなと思います。スピードが速いのは面白い。でも、これだけでは無く、様々な変化にどれだけ気づくか?
音、臭い、風の当たり具合、船体の動き、舵の動き、たくさんあると思います。どれだけ気づけるかが面白さの源泉ではないかと思います。日本人には繊細セーリングが合うと思うのですが?そういう感性を持つのは日本人ではないかと思います。舵に伝わる微妙な感覚を、感じ取るところから始まるかなと思います。

欧米人にとって、セーリングは勝つか負けるか、面白いか面白くないか、かもしれません。しかし、日本人にとっては、もうひとつ、感性としてのセーリング、良い悪いでは無く、変化により気付く事、情緒、風情、何かそういう類の可能性もあるような気がします。

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