第三話 観察力と感じ取る力

セーリングを意識して、意図をもって走り続ければ、この二つはおのずとついてくる。その度合いは、経験の積み重ねによりますが、少なくとも、今まで気が付かなかった事にも、自然に見れたり、感じたりするものです。

シートを引く力加減、舵を持つ力加減、トラベラーの動き、ブロックの動き、そういう動きがいつもとは違うとか、そういう事をあえて観察しよう思わなくても、自然に気が付くようになります。或いは、船艇が少し汚れている事に気付いたり、とにかく、いろんな事に自然に気付くようになります。

最初は観察してやろうという意識が必要かもしれません。感じてみようと、意図的に集中しようと思うかもしれません。でも、そのうち、それらが自然にそうできるようになる。そしてどんどん研ぎ澄まされていくと思います。

すると、それに応じて、操作の方も変わっていきます。より精密に、それが自然にそうなっていきます。何故なら、違いがわかるからです。違いが解らないなら、大雑把になります。それで、どんどんその先に進んでいきます。どこまで行くか、何年かかるかは解りませんが、でも、その自分の変化こそが、面白さになると思います。

そういう人は、それこそいろんな事に、意識せずに自然に気が付く。ボルト1本はずれかかった事にも気が付く事がある。自然に集中し、自然に観察し、自然に感じますから、しんどいわけじゃ無いんです。全部自然にできるようになる。だから楽にやれる。うまくなればなるほど、楽にやれるようになるんだろうと思います。

でも、完璧はありません。だからこそ、永遠のテーマとして、遊ぶ事ができます。

弘法、筆を選ばずという言葉がありますが、そこまで高みに達するなら、ヨットは何でも良いのかもしれません。そのヨットなりのセーリングを遊べるようになるのかもしれません。でも、私、全然その域ではありませんので、選びます。より、操作のしやすいとか、性能が良いとか、そういうヨットがどれほど、助けになるか。自分に味方してくれるか。相手は風と波ですから、こっちは自分とヨットですから、そのヨットが味方してくれるかどうかは非常に大きい。ヨットが足を引っ張るようでは、困ります。弘法の域ではありませんので。

結局、セーリングを楽しむというのは、操作を通じて、反応を通じて、自分の観察力と感じ取る力をどれだけ引き上げていけるかという事になるのかもしれません。そして、どこまで行かなければならない事も無く、どうせいくらやっても完璧には達しえないので、ならばやらないのでは無く、その至る道程の変化にこそ、面白さが発見できるのではないか。ステップ1からステップ2に上がっても面白いし、ステップ20からステップ21に上がっても面白い。それぞれの味わう世界は違うでしょうが、でも、それぞれに面白さがある。

こんな遊びを考えた人はすごいです。人間の持つ頭脳と感性と両方を刺激し、操作によって、変化を起こさせ、人間ならではの遊びです。人間が持つ感覚器官のどれをも刺激してくれますから、ただ、楽しいとかいう次元の事ではありません。

人間が人間たる所以は五感と頭脳にありますから、それをあますところなく使える遊びですね。
まあ、人間が夢中になってやれるスポーツはみんなそうです。どれを選ぶかは、その人次第ですが、もしヨットを選ぶのなら、セーリングスポーツを是非やっていただきたいと思います。そして、良く観察して、感じていただきたいと思います。良いか悪いかでは無く、変化を感じていただきたいと思います。

変化そのものに良いも悪いも無い。勝手にこっちが決めて、良い感じとか悪い感じとか決めつけています。でも、できれば良い悪いでは無く、変化として感じてはどうでしょうか?いろんな変化があります。面白さとは、いろんな変化をつけて、次々に味わっていく事ではないかと思います。変化はすでにあるんですが、そこに気付くかどうかになります。観察と感じる事、それは集中力が鍵になります。自然に集中できて、自然に観察して、自然に感じる。

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