第八十六話 気付く事

我々はもっと日常的な事に注意を払って、もっと気付く必要があるのかもしれません。ある話、長い事生きてきますと、たくさんの経験をしてきましたから、日常のいろんな事に昔ほど新鮮な気持ちが湧きません。いろんな出来事に無意識の反射的な対応をします。

もう、師走ですが、一年があっという間に過ぎると感じるようになります。それは、無意識の反射的態度に、あまり充実感が無くなり、無意識に過ごすようになるせいである。という話があります。
なる程、そうかもしれません。若い時は全てが新しい事であり、その分、驚きがあり、悩みもするわけですが、今から思うと、今同じ状況に面しても、たいした事は無いわけです。驚きも悩みもしない。だから、充実感も無いし、時間は矢のように過ぎ去る。

そこで、前話の慣れと同じように、日常に、もっと意識して見る、聴くというのが必要かもしれません。すると何が変わるのか?解りませんが、何かに気付く事があるかもしれません。ヨットも同じで、ただの日常の、慣れたセーリングにも意識してやると、何かが見えるかもしれません。結局は無意識に反射的にやると、やっぱり何か充実感が無くなり、時間が過ぎ去る様に、セーリングを味わうという事が無くなるかもしれません。反射的操船では無く、意識的操船。もっと操船するという感じ?慣れた事はつまらないと思いがちですから、意識しなければできませんね。

もっと大胆な事をして、冒険を楽しむという方法もあります。しかし、一方では、もっと日常に新鮮さを見出す方法もあるかも?日常の何でも無いセーリングにおいて、慣れてしまって、無意識になりがちです。2〜3時間を流すようにセーリングしてくる。慣れた動作において、それだけでしたら、何ら新鮮さも無いかもしれません。それで、敢えて、意識して、無意識から意識的へとシフトして、集中してみる。慣れた動作は無駄の無い、それでいて簡単にできるもの。その余った意識を何に使うか?

その余った意識を感覚に集中してみるというのはどうでしょうか?ありとあらゆる変化を見逃さないというように、余った神経をそこに注ぐ事ができるとしたら、もっと何か新しい発見があるかもしれません。

面白さを維持するのは、慣れと同時にさらに進むしかありません。セーリングは感覚のゲームだと思います。少なくともレースで無い場合は。そうなら、もっと感覚重視で、変化の無い時は無いわけですから、もっと感じようと思っても良いんじゃないでしょうか?

もし、わずかながらも変化を感じる事ができたら、今までは感じ得なかった事を感じる事ができたら、それこそが面白さの発見ではないかと思います。セーリングは鈍感では面白くない。もっと鋭敏になる事で、面白さが創造できると思います。それはヨットの性能もあるでしょうし、乗り手の鋭敏な感覚にもよると思います。言い方は悪いのでしょうが、ヨットの性能+乗り手の性能です。

乗り手の性能は何も腕が良いという事では無く、感じ取れる鋭敏な神経があるかどうかではないでしょうか?これさえあれば、腕は後からついてくる。まずは変化を感じ取れるかどうかですね。
そうやって、どんどん乗って、長年過ごしていきますと、その先どうなるんでしょうね〜?

はっきりしている事は、鋭敏な感覚を手に入れたから面白いのでは無く、その過程が面白い。進化が面白い。成長が面白い。ある特定の状態に達しても、一瞬であり、たいした喜びでは無いと思います。むしろ、そこへの到達プロセスの方が面白いのではないでしょうか?

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