第八十五話 慣れるという事

ヨットを始める時、すべてが新鮮ですから、刺激があります。楽しさもあり、不安もあり、これらは全部刺激として新鮮に受け止める事ができます。しかし、やっていくうちに慣れてきます。慣れると、無意識のうちに、操船ができたりしますから、楽にできるようになります。慣れが必要ですとか言います。

でも、慣れると、新しい刺激が無くなりますから、今度はもっと外に刺激を求めます。そうで無いと退屈でしょうがない。慣れる事は良い事なのでしょうが、そんなに神経を集中しなくても、操船ができるようになり、見慣れたメンバー、見慣れた風景、見慣れたヨットという事になります。どこかに刺激は無いか?慣れるのは良い事であり、反面、退屈という面に近づいている事でもあります。

意識が大雑把のままなら、やがては刺激に慣れて、退屈感が顔を出す。大きな変化しか気付かないのであれば、より大きな刺激を求めるしか無い。冒険は二種類。ひとつは、より大きな刺激を求める方法と、もうひとつは、自分の大雑把な感性をもっと磨いて、細かい変化に気付く方法かと思います。

物理の世界は宇宙を模索し、また一方では原子の世界へと細かい方へ向かう。外か内かの違いですね。どちらが良いとは言えませんが、クルージングは外を求め、セーリングは内を求めるかと思います。クルージングはより大胆に、セーリングはより繊細に、という事でしょうか。

慣れとは恐ろしいもので、全部解った気になります。外界の変化に対して、無意識の反応になってしまいます。それが良い面もありますし、その為に無くす面もある。最初は舵に神経を集中していたのに、いつの間にか、反射的になります。それを敢えて意識してやりますと、もっと細かい変化も気付く事ができる。もっと繊細な舵操作もできる。その解るという行為を楽しむ事もできる。

慣れるという行為は必要です。ですが、同時にそこに意識を置いて、どうしていくかという事を考えた方が良いかもしれません。慣れるのにまかせて、流れるように進んでいきますと、どこかで、退屈感がにじみ寄るのではないでしょうか?

車は日常的に乗ります。もう慣れてしまって、自動的と言いますか、反射的に操作できます。ですから、車運転しながら、音楽を楽しみ、電話もできるし(しちゃいけませんが)、テレビみたり、昔は読書だってやってました。もう、車の運転には楽しみは無く、単なる移動手段にすぎません。逆に、移動手段であるからこそ、慣れて良いのかもしれません。車を楽しんでいるわけではありません。

でも、ヨットを同じようにしてしまいますと、ヨットの楽しみは何か?という事になります。誰かが一緒に居てくれないと楽しくない。ヨットでテレビ見てもしょうがない。走りながら電話で誰かと話してもしょうがない。ヨットはヨット自体を堪能した方が良いと思います。ならば、慣れる必要もありますが、同時に慣れない部分もどんどん発見していかなければならないという事になるのではないでしょうか?

気付く事は、ある物を手に入れると、同時に何かを無くすという事ですね。何を無くしたかに気付く事は大切なんだろうと思います。何度も乗って、慣れてしまって、尚且つ、それでも神経を集中して舵を持つ事ができるなら、新しい何か、誰も気がつかない何かを発見できるかもしれません。
それは反射的に、操船させられているのでは無く、積極的な操船になると思います。舵ばかりでは無く、風がこう吹いてきたから反射的にこうするのでは無く、意識してこうするというのとは違うニュアンスがあると思います。

我々は、何でも慣れて、反射的になります。自分の意思というより、自動的です。ですから楽にできるようになります。でも、同時に反射的というのは、決して面白さでは無いわけで、自分の意思があって、こうして、ああしてというのがあるからこそ、楽しさ以上の面白さを創造できるのではないかという気がします。

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