第九十八話 選択性

仕事柄、ヨットの写真を良く撮りますが、つくづく写真の難しさを感じます。船台の上に載ったヨットを、自分の目で見ますと、ヨットを見ているわけですが、船台から伸びてきた棒とか、その他の障害物と言いますか、そういう物を見ないで、ヨットを見ます。

ところが、それを写真に撮りますと、その障害物を無視できません。邪魔になります。現物を見た時と同じ角度からの写真なのですが、後で写真を見ますと、良い写真では無くなります。

人間というのは、興味のある対象しか目に入らないようになっているのかもしれません。実際は見ているんですが、見ないようにしている。それが写真になりますと、客観的な見え方をします。

お芝居に黒子というのが居ますが、これなんかも、お芝居を楽しんで見ているうちは、黒子の存在が気にならない。これと同じだろうと思います。

音でもそうです。客観的には、いろんな音が聴こえているわけですが、それでも、興味の対象である相手の話が聞こえて、他は聴こえているんですが、無視してます。こういう選択的な見方、聞き方をしている。

多分、この事は、いろんな事にもあてはまるのではないかと思います。好きな物、興味のあるもの、気になるもの、そういう事を選択的に見たり、聞いたり、意識したりしているんではないかと思います。でも、客観的事実は、余計なものがたくさんあります。

という事は、我々は客観的事実を普段から見て居ないという事になりますね。目をあけた途端に飛び込んでくる、全てのものを、同等に見る事はできないという事になります。それを左右しているのは、意識でしょうね。意識が選択している。

気に入ったものに対しては、その良い所を探してでも見ようとしますし、逆に気に入らないものは、悪い点ばかりが見えてくる。でも、意識が変われば、見方も変わるという事になります。

全てのヨットが絶対的に良いとか、悪いとかいう事は無く、見る側の意識の違いという事になります。客観的に見る事ができないにしても、どういう視点で見ているのか、という事に気付くと、より客観性が出てくるのではないでしょうか?

キャビンの広さを見る時、大勢の友人が集まった時の事を想定して見ているか、或いは、自分だけが居る場所として見るかは、広さに対する見方が変わります。艤装を見る時も、クルーが居る前提で見る時と、シングルを意識して見る場合とでは、見方が異なります。

さて、そういう意識で見て、評価するわけですが、意識的に違う意識も考えて見ますと、どうなんでしょうか?我々の状況というのは常に変わります。シングルと思って見て、でもクルーができるという事もあるかもしれません。その逆もあるかもしれません。どういう見方が良いとは言えませんが、できれば、いろんな見方を意識する事は、より客観的な見方に近づくのではないか?そのうえで選択した方がベターになりはしないか? 解りませんが?

いろんな見方を意識するという事で、それらの中から選択する事によって、より自分に相応しい選択ができるのではなかろうか、という気がします。見る前提が変われば、見え方も変わる。

デイセーラーを見ますと、キャビンが狭い。これでは大勢寝る事ができない。でも、その代わり、重心は低い。これはセーリングには良い。どっちを優先した方が、自分の使い方にとって、より楽しむ事ができるのか? 客観性が少し増えます。盲目的に選ぶのではなく、意識的に選ぶ事ができる。

しかし、所詮は自分の意識から離れれることはできませんから、好みにはなるでしょうが、でも、意識的な選択ができます。それは心がスッキリします。

大勢集まるかもしれないので大きなキャビンにします。それがいつか解らないし、年に1回かもしれません。それでも、それが解ったうえでそうするのなら、スッキリします。滅多に無いから、そんな時はどうにかすると思えば、それもスッキリします。

スッキリ選択をするのは、選択を意識するから。それでも、自分の感情が、ある物を好んで、どうしてもと感じる事があります。欠点もあるが、どうしてもそこに魅力を感じてしまう事があります。それなら、そう魅力を感じている事を意識すれば良いんじゃなかろうか?そうしたら、スッキリです。迷いも軽減されるのではなかろうかと思います。

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