第八十五話 観察

何を得、何をするかは重要ですが、これからは、その時どんな感じがしたかを意識する事は、もっと重要になるのではなかろうか?何故なら、その感覚は自分自身の体験であり、それが本物だからです。

どこどこのラーメン屋がうまい。そんな話を聞いても、実際に自分で食べてみなければわかりません。ところが、我々はいろんな情報を得易い状態にあるだけに、自分の体験から来るフィーリングでは無く、何となく情報を自分のものにしてしまう傾向があります。

もちろん、全てを経験する事はできませんが、少なくとも、自分の感じたフィーリングは、自分の本物であり、それが自分のアイデンティティーという事になる。自分が自分であるのは、その独自のフィーリングにあるのではなかろうか。そうで無ければ、他人の感覚を自分と勘違いし、自分の感覚が解らなくなる。

それで、セーリングする時、自分の感じを意識してはどうかと、言ってきました。我々はインターネットを通じて、瞬時に世界に飛び、瞬時に世界中の情報を得、物を手に入れたり、仕事したりしてきました。しかし、それだけなら、ロボットとあまり変わらない。我々がロボットと違うのは、心がある事です。もし、科学がもっと発達して、人工知能が造られ、我々と同じ姿形をしたロボットが作られたとしたら、もはやロボットと人間の区別がつかなくなります。ただ、違うのは心です。ならば、心で感じる独特のフィーリングこそが、生きているという事になりはしないか?ロボットが生きているとは言わないでしょう。

仕事も遊びも生きてるからするだけであって、仕事や遊びが生きている事では無い。感じている事こそが生命という事ではないでしょうか?ですから、生きるという事は感じようとする事。感じる事が人間にとって、最も生きていると思わせてくれる。

うまいラーメンを食ったら、うまかったという味、舌触りの感触、顔に当たる湯気の感じ、箸を持つ手の感触、喉を通る感触、できるだけ細かく感じた方が良いのかもしれません。その感じが好ましいものでは無かったとしても、生きているという事はそういう事ではなかろうか?

するとどうなるか?多分ですが、自分の感じが良く解り、自分以外の周りの世界に対する判断、情報の仕分け、そういう事が楽にできるようになるのではなかろうか?

ところが、意識すると言っても、簡単ではありません。つい、周りの現象に気を取られてしまいます。そして、自分の事を忘れてしまう。その事の練習に、セーリングは実にもってこいなのです。シングルハンドなら尚良い。

慣れてきますと、普段の生活でも、徐々に、自分のフィーリングを意識するようになります。それがどんどん進行していくとどうなるか?まだ確信は無いのですが、自分に必要な情報かどうかが、瞬時に解るような気がします。それは物事が良く見えてくるという事でもあります。ただ、今のところはまだ多分ですが。

溢れる情報の中に居ます。その中から自分に必要な情報を選ぶという行為は大変難しい。何かが基準にならなければ、選択なんてできません。それは単純に好きか嫌いか、という事でも違う。何故なら、自分の好き嫌いも長年の情報の中で、本当は誰のものかも解らなくなっているかもしれません。何かが流行ると飛びつく。そんな事を繰り返してきたわけですから。その反対の態度をとってきた人も、結局は同じ事でしょう。

我々はしょっちゅう考えます。その考えも、誰かの受け売りかもしれません。ここで書いている内容も受け売りかもしれない。自分でも気がつかないうちに、そうなっているかもしれません。ならば、その頭の中にある考えも、何を考えているかを観察してみる。心と頭脳を観察する。

すると、想像ですが、周りに起こっている現象、いろんな飛び交う情報、それらがもっとクリアーに見えてくるのではなかろうか?そんな気がします。これは実際そうなのかどうか、試すしかありませんが。そして、それがもっと進行すると、周りの現象に振り回されないで、という事は余計な事は考え無いで、そのままを理解できるようになるのではなかろうか?

で、どうなるか?もし、クリアーに見えるようになったら、その時こそ、全てをゲーム化して、全てに遊ぶ事ができるのではなかろうか?これこそ自由自在のゲームです。その練習の為に、セーリングは格好の素材なのではないかと思っています。

何も、そんな事を目指してセーリングする必要は無いのですが、自分の感覚に注意して、自分の頭脳は状態を観察して、理屈的にその調整をして、それ以外は考え無い。そういうのは、案外、純粋に味わう事になるような気がします。その方が面白いような気がします。それが生きているという事であり、その生きている状態でセーリングという味わいを持ち込んだ。セーリングは手段です。
きちんと区別がつきます。区別がつくから、ゲームだと解ります。ゲームだと解った瞬間に、セーリングは面白いという事なるのでは?

実は、先日、考え無いという本を読みました。人はいつでも考え、頭が良い事が良いとされます。しかし、その事で、我々は苦労もしているわけです。しかも、自分の価値判断では無いところで。ですから、考え無い事の薦めでもありました。なる程、とそこから発想を得、想像し、こんな事を書いてみました。でも、やっぱり、自分で試して、そうかどうかを確認しなければ、自分のものとは言えません。でも、過去に考えていた事にピンを来るものがあった。もっと遡れば、だからこそ、この本を読もうとう気になった。う〜、何が何だか?

考える必要がある時に考え、考える必要がない時には考え無い。そういう事が必要なんでしょうね。そのうえで、自分の感覚を観察する。つまりは、自分の頭脳も心も観察をする。そこがポイントのような。それで、そういう事をセーリングでやる。すると、結構良いような。

次へ       目次へ