第五十八話 求める、求めない 

何かを求めて、一生懸命やります。ヨットなら、理屈を覚えて、練習して技術を身に付け、その技術を磨いて洗練させていきます。ですから、何でもハウツーから始まる。どんどんうまくなる。面白さも出てくる。それが普通かと思います。

しかしながら、確かに面白いのだけれど、本当に心から楽しめるのは、何も求めない時、来るものをそのまま受け入れる準備が出来ている時ではないか、とふっとそんな気がします。何かを求めるのは、求めるもの以外が受け入れたくないという気持ちがあるわけですから、そんな物は一切無くして、来るものこばまずという姿勢が出来た時が、本当に楽しめる時かもしれません。

しかし、最初から何でもというわけにはいかないので、最初は求め続ける事になり、それを越えないといけないのかもしれません。そういうプロセスが必要かもしれません。

我々は眼で見て、耳で聴いて、鼻で匂いを嗅いで、舌で味わい、体で感触を味わいます。これらの情報を総合して、何かを意識する。良いとか悪いとか。それが生きている事でもあるわけですが、
求めるという事は、この意識が入ってきた情報を総合して何かに創り上げる事になります。それが普通のやり方です。

でも、もし、五感で感じた事を、何も創り上げないで、感じたままで、そのままにしておく事ができるなら、それは純粋にフィーリングを味わう事になる。自分のフィーリングを何かに作り上げないで、そのままを味わう。刻々と変化する感じの変化をそのまま味わう事ができるなら、それこそセーリングを味わう事なのではないか?何かを創りあげることで、セーリング以外の何かにすりかえてしまう事になりはしないか?

創り上げる事で、退屈とか、良いとか、悪いとか、評価を下すわけですが、自分が評論家ならまだしも、ただ楽しみたいだけなら、何もしない方が、純粋に楽しめるのかもしれません。我々はいつでも、何をしていても、五感で情報を得て、何かを創り上げて、評価を下してしまいます。それが癖になっていますが、それですと、ひょっとすると、違う行為をしながら、結局は同じところに居るのかもしれません。

セーリングという違う行為に見えても、結局は同じ。そこからフィーリングの豊かさが削がれる。それなら、仕事していても、違う遊びでも、同じかもしれない。求めないセーリングは、評価しないセーリング。感じたままでストップするセーリング。吹かない時も吹く時も、良いも悪いも無いセーリング。感じるだけのセーリング。その方が豊かさが出てくるのではないか?

温泉に浸かった瞬間に出てくる、あ〜、という言葉。ため息のような言葉では無いですが、その瞬間の感じは、何でしょうか?それは一瞬で終わりますが、セーリングにおいて、瞬間に変わる変化を、あの温泉に浸かる一瞬のように、瞬間瞬間として、ただ感じるだけのセーリングは、何かがあるような気がします。

それには、自分の感じに集中して、できるだけ何も考えない事に勤める。強風の時、緊張感が増し、そういう時には、余計な事を考える余裕が無い。集中力が増しています。感じを味わうというのはそういう事かもしれません。強風では自然にそうなれるが、そうでも無い時はあれこれ考えやすい。でも、セーリングというのは、他のスポーツ等と比べても、比較的そういう集中に入りやすい。あらゆる時に、あらゆる感じを味わう。それが本当にセーリングをセーリングのまま味わう方法なのではなかろうか?

生きているという事は、この五感を感じる事にあり、どれだけ豊かな感じを味わえるか、ただ単純に良いとか悪いとか、そんなものでは無い。できるだけたくさんの感じを得る事が、豊かさなのかもしれません。その感じが何年にも渡って積み重なっていくというのは、どんな感じなのでしょう?

心の時代とか言う言葉がありますが、案外こういう事かもしれません。それをまた良いと悪いに評価しますと、これまでと同じ。心の時代にはのんびりというニュアンスがありますが、毎日のんびりしていて心が豊かになるとも思えません。豊かな心とは、いろんな感じを、何かに捏造しないで、そのまま感じたままにして、いろんな感じをたくさん積み重ねる事ではないか?

まあ、いつもの戯言ですが。

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