第九十四話 冒険の旅  

遊びは人生の潤滑剤とか言います。でも、これは人生の主目的が他にあって、それをスムースに行かせる為というニュアンスです。しかし、遊びも人生の一部であります。朝起きて、顔を洗って、朝食をとって、歯を磨いて、云々、全部人生の一部であります。その中で、遊びは潤滑剤どころか、もっと自主的な冒険であります。

冒険はちょっと未知の世界を見てやろうというワクワクした気分があります。未知の世界は不確定、人生そのものが不確定でありますが、中でも遊び、冒険は予測できないワクワクした気分を求めます。それは確かに、日常生活に潤いをもたらす。人生そのものが未知の世界ですから、そのどこかにワクワクした気分を持てるなら、それらは全部遊びなんだろうと思います。

仕事において、義務感でするなら、ワクワクした気分はありません。でも、その中にも時折ワクワクする気分が生まれる事がある。そうなると仕事でも遊びなんだろうと思います。つまり、遊びはどこにでもあり、ワクワクする気分は全て遊びと考えても良いのではないかと思います。

逆に、遊んでいる時、ワクワクした気分が無いと、遊んでいるように見えて、ちっとも遊んでいない。それはもはや遊びとは言えない。遊んでいない事になります。その遊んでいるように見える時間を過ごしているに過ぎない。

冒険の旅は我々を活き活きとさせるし、蘇らせる。本当はありとあらゆるところに、このワクワクした気分を味わえるなら最も良いのかもしれません。遊びの天才は、それを見つけるのが上手なのです。そういう人は何をやっても、どこかに面白さを見つける事ができる。ですから、我々も常に面白さがどこにあるのかを感じとれるようになりたいものです。

ヨットは人生の一部。それだけでは遊びではありません。行為の一部にしか過ぎません。ヨットに乗っている時でさえ、面白さを感じていないのであれば、ただの行為に過ぎない。そこに面白さを感じた時にこそ、ヨットは遊びとなる。

遊びは冒険の旅、これは感覚的にワクワクした気分を味わう旅でなければなりません。どこかに行くという意味では無く、感覚的冒険の旅であります。いろんな感覚を味わう旅です。感覚が鈍くなりますと、退屈感が出てくる。ですから、感覚を研ぎ澄ませて、面白さを発見する必要がある。

美しい物をみるのは目の遊び。良い香りをかぐと鼻の遊びになり、おいしい食事は舌の遊び。良い音楽を聴くと耳の遊び。頭脳がパズルを解くのは頭脳の遊び。そして、行動は体の遊び。体を動かして遊ぶという行為は、体だけでは無く、目にも、耳にも、時に鼻にも舌にも及ぶ。ですから、体の遊びは最高のフィーリングを与えてくれます。

ヨットは感覚遊びにはもってこいかと思います。五感を刺激するように意識したいものです。まずは、うまいコーヒーを味わって、出港です。セールを上げて、良い音楽を流すか、風の音を聴く。目は風景を追い、ヨットの動きを追う。鼻は潮の香りをかいで、手には舵の感触を得る。そして体全体で、ヨットの動きを感じる。これら全部を意識していますと、頭脳は忙しくて余計な事を考える暇は無い。頭脳はさらにセールをも観察しています。少しの変化も見逃すまいと感覚を研ぎ澄ませると、わずかな変化さえも見逃さない。

そこにブローが来る。船体はヒールする。操作によって対応する。目もその動きを見張っています。体は全体を感じます。そうやって意識さえしてやれば、いろんな感覚が湧き出てきます。それが面白いと感じるなら、ヨットは遊びになりますが、つまらないと感じるなら、ヨットはただの行為になる。ただの行為なら、面白くも何とも無い。でも、どこかにちょっとでもワクワクした感覚があるなら、それは遊びになりますし、もっと求める冒険の旅に出る事ができる。

面白いか、面白く無いかは、ちょっとした感覚の違いなのかもしれません。面白さを見つけるには、感覚を研ぎ澄ませる必要がある。行為よりも感覚に注意。その先に面白さの源泉があり、それを見つけたら、誰でも冒険の旅に出れる。

ついつい行為にばかり目が行きがちですが、あらゆる行為におけるその時の感触はどうかと意識してみてはどうでしょうか?これまでは気がつかなかった感触に気付くかもしれません。何も効率良く走るとか、素早い動きとか、それらだけが面白いわけじゃない。時には、感覚中心のセーリングもやってみてはどうでしょう?

そこで、セーリングバリエーションとして、頭脳をフルに使って、神経を鋭敏にして、観察に集中して、より速くを求めるセーリングと、頭脳はそこそこで、自分の感覚中心にセーリングする時と、これらふたつを意識して使い分けてはどうでしょうか?この異なるアプローチの仕方が、ひょっとすると何かを見出すかもしれません。

次へ       目次へ