第八十六話 楽しむ為に

ヨットを最も楽しむ方法は何か?最大のテーマであります。誰もが、快走のフィーリングを求め、レースに出れば優勝を狙い、少なくとも、あのヨットよりは早くゴールしたいとか、日本一周したいとか、あそこに行きたいとか思います。それが普通で、それを体験した時こそがグッドであり、その他はバッドとは言わないものの、普通、或いは辛い事もある。

我々はみんなそういう中に居ます。良い走りを願い、楽しみたいと願いつつ、そうで無い時も必ずある。むしろ、その方が多いかもしれません。そんな状況で、本当にヨットを楽しめるのだろうか?良い時だけを楽しんで、後は、その犠牲になっているのかもしれません。考えてみますと、快走を求めれば求める程、そうで無い時を楽しめなくなるのではないか?求めれば、求める強さが強い程に、辛さも強くなるのではないか?そんな気がします。

ならば、何も求めないとしたらどうでしょう。ただ、ヨットを出して、その日のセーリングはどんなセーリングなのだろうと、向こうからやってくる状況を待つ。つまり、自分の意図はあります。セーリングをするという意図、それは進む方向性を示した。その意図の元に、ヨットを出す。セールを展開する。舵を持つ、トリミングをする。そこまでしたら、風任せ、向こうからどんな状況がやってくるのかを待つ。こんな走りになれとか、もっと走れとか、何も考えない。ただ、今できる事をして、待つ。その時々のやってくる状況を待つ。

これは何にも楽しく無いように聞こえると思います。ところが、本当はこれが最も楽しむ方法ではないかと最近は思ってきました。何の期待もせずに、ただ、その時の状況を待つだけです。それが、良い風が吹けば、その時の走りを楽しめるし、吹かなければ、それなりのセーリングを楽しめるし、強風になれば、これまたそれを楽しむ。その時々がどんな状況であれ、その時々のセーリングを全て楽しむ。どれもが、セーリングであり、快走だけがセーリングであるわけではありません。全てがセーリングの一部、たくさんあるセーリングの様相を、ある特定のセーリングだけを求めるのでは無く、来るもの全てをそのまま楽しむ事ができる唯一の方法ではないか?

今日、セーリングを意図して、ヨットを出す。その日のセーリングをそのまま楽しむ。どんなセーリングになろうが、逆に、今日はどんなセーリングができるのかな、と待つ事ができる。期待も無いし、不安も無い。ただ、起こるであろう何かを、いつでも、いかに楽しみに変える事ができるかが、最もヨットを楽しむ方法ではないか?

快走を求めれば、その逆は楽しめない。しかし、来るものをそのまま待てば、快走は快走として、そうで無い時はそれなりに楽しむ事ができるのではなか?すると、楽しみはたくさん増えてきます。

これは必然と偶然という問題から考え付いた事です。世の中の半分が必然で、これは我々がコントロールできる世界です。もう半分が偶然で、我々は偶然をコントロールできません。我々の意図は必然の中にあり、我々が制御できるのは必然という半分しか無い。たとえ科学が最高に発達したとしても、全体の半分でしかない。偶然がどう作用するのか?そこにほんろうされてしまうか、逆にそこを楽しんでしまうかの違いです。それは偶然を楽しみ、遊んでみようという事になります。どうあがいても、最高で半分しかコントロールできないわけで、そこに偶然が作用していくわけですから、このわけの解らない偶然を、期待と不安で迎えるより、面白がって、遊んでみた方が良い、と思った次第です。

ちょっと抽象的で、わけのわからん内容かもしれません。でも、偶然を見る、観察する、そういう風に少しづつ切り替える事によって、気持ちにも余裕が生まれ、やってくる状況が、より楽しめるようになってきたような気がします。意図し、行動し、そのうえで、意図の及ばない偶然を遊ぶ。偶然を遊ぶ事ができるようになったら、これ以上の楽しみ方は無いような気もします。

ところが、実際は、もっと吹いてくれないかな〜、とか、風が治まってくれないかな〜とか、ついつい考えてしまいます。それを何とかして、素直に遊べるように。良いとか悪いとか、考えないように、そうする事ができれば、ヨットの持つあらゆる要素が、そのまま楽しめるようになるのではないか?
意図は希望では無く、ただちょっと方向性を与えるだけ。不安も期待も無い状態。そうできれば、と最近は思っています。今のところ、これが最も楽しめる方法ではないかという気がしてます。

そこで、日常生活においても、同じような試みをしてはどうかと考えました。仕事ではデイセーラーを広げたいと意図し、その為に広告したり、いろいろやります。そのうえで、あとは偶然が何を運んでくるだろうか、と観察しています。思うように行くかもしれないし、行かないかもしれません。でも、偶然の状況を観察しながら、何が起こるだろうかと、結構落ち着いて楽しめるような気がしています。偶然が世の中の半分を締めるとしたら、できる事をやったら、後は、偶然を楽しむしかない。偶然を心配するより、楽しんだ方が得であります。それで、何かが起こったら、では、今度はこうしようてな具合。これは人生を楽しむ方法でもあるような。

まあ、大袈裟かもしれませんが、とりあえず、今度のセーリングの時に、何も考えずに、ただ出して、何が起こるだろうかと、ただ観察して待ってみてはいかがでしょうか?そして、起こった事に、良いとか、悪いとか考えず、もっとこうなればとか考えず、そのままその日のセーリングを楽しむように心がける。こうなれと望んでも、ならないものはならないのですから、それなら、その時の状況をいかに楽しめるかを考えた方が良い。偶然をいかに楽しめるか?そこがポイントのような?

必然の世界では、知識を増やし、技術を高め、いろいろ学んだ方が良いに決まってます。しかし、それでも、偶然がどう事を運ぶかによっては、うまく行かない事も多々あります。ただ、知識や技術を高めるのは、確率的にはうまく行かせる可能性が高まる。後の課題は、偶然をどうやって味方につけるかです。運、御縁、ジンクス、いろいろ考える人が居ますが、そんな事を考えても答えは出ない。科学はこんな問題を解く事はできません。

偶然を味方につける事ができるかどうかは解らないものの、せめて、敵には回さない方法は無いか?敵に回すという事は、それを嫌がる事です。ならば、嫌がらないようにすれば良いのではないか?偶然に何が起こるだろうか?とそれを楽しみに待つ事ができれば、少なくとも敵に回す事にはならないのではなかろうか?偶然を冷静に観察し続けると、意外や意外、いろんな事が解ってくるような気がします。自分に合うか合わないか、ついているかついていないか、理屈では無く、何となく感じられるような気がします。

でも、やっぱり時化たらつらい。時化を楽しむなんて事はできない。そんな時は、今すべき対応にもっと集中して、考えないようにしたら良いのかな〜?時化た時はその対応への集中が必要であり、その他は無用なものです。それさえできれば、全てを楽しむ事ができるようになるんじゃないか?でも、この方法は案外不安が無くなります。平静で居られる。平静で居られれば居られる程、楽しむ事ができる。本当に楽しむというのは、何もキャーキャー騒いで、有頂天になる事では無いような気がします。あらゆる場面を、ゲームのように楽しむ事ができる。これこそが、本当の楽しさ、面白さではなかろうか?

以上、本日の戯言であります。

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