第五十六話 必然と偶然

世の中には必然と偶然とが混在しています。必然はこういう状況ではこうなると予測され、実際にそうなる事を言い、偶然は予測できない結果という事になります。我々がコントロールできるのは必然の方で、何かを計画し、実行に移す。その結果は必然でありますが、偶然がそこに入り込んで、結果が異なる事になる事が少なく無い。その必然と偶然がおりなす結果は良い事もあれば、悪い事もある。

友人を誘って、セーリングに出る。その日に偶然雨が降る。或いは、風が無い。また、或いは、いい風が吹く。我々は必然を計画し、偶然によって左右される。しかしながら、その人が気象予報士ならば、その日の天候が予想される。すると、その天候はその人にとっては必然とも言える。必然と偶然はその人の立場によっても変わる事になります。

これらは、科学の進歩によって、昔は誰の目にも偶然であったものが、今日では多くが必然とみなされる事が多くなった。しかしながら、それでも尚、誰の目にも偶然とみなされる事があります。

人は言葉を持って理解する。言葉にしなければ、理解したとは思えない。言葉にならない時は何となくとかいう言葉に置き換えるしかない。明確な理解は明確な言葉を頼りにしています。ところが、感動した時とかは言葉に置き換えようが無い事があります。良い音楽を聴いた時、映画、小説、何でもそうですが、深く感動した時、深ければ深い程、言葉にはならない。そして、その感動は必然では無く、偶然に寄る。

いつものようにセーリングに出て、いつものように舵を取る。同じようで同じ時は無い。その時の状況と、自分の心の具合によって、感動を得る事があります。それは予想できるものでは無く、偶然の力による。という事は、我々は必然を計画し、実行し、予想できる結果を求めますが、時に偶然の力が働いて、より良い結果を得た時に感動をする。必然の結果を得たいが、偶然の予想できない結果は、時に我々を高みに押し上げる。或いは、その逆もある。

つまりは、必然と偶然のおりなすプロセスを、その結果を意識してみるのはどうか?偶然と思える事もよくよく考えると必然だったかもしれない。でも、感動する事などの言葉にならない事は偶然の賜物。予想できないからこそ、必然以上の感動がある。まるでミステリーのようです。

楽しさも面白さも、まだまだ必然の範囲、それが夢中になってセーリングして、遊んでいるからこそ、そこに偶然の力が働いた時にこそ、それらを越えた感動に遭遇する。より良い偶然に出会うには、多分、夢中になる事ではないでしょうか?夢中になって、最初は頭で考えた事を実行しながら、徐々に言葉が薄れてきた時、その偶然は訪れる。言葉が無くなった時にこそ、偶然が起こる。それは多分、事象を言葉で見ないで、無心に見ているからでしょう。感動は言葉を超えるところにあるのでしょう。面白ければ夢中になれる。夢中になった時こそ、偶然を誘発する。是非、セーリングに夢中になってみてはどうでしょうか?いつかきっと何かが偶然に起こるかもしれません。

出発は楽しさを求め、それが面白さに変わって、夢中になる。そこから時に起こる偶然を味わいながら、偶然を遊ぶ。これは極めつけの遊び方?どんなに科学が発達しようとも、今セーリングしているその場所での、風の強さ、向き、波の状態、潮等々を明確に予想するのは困難であろうと思います。まして、自分の心の状態もある。だからこそ、偶然が起こる。セーリングは偶然をも遊ぶ事ができる。全てが予想できるのなら、そんなつまらない事は無い。偶然を遊ぶのは究極なのです。

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