第九十七話 考え方次第

世の中にはいろんな考え方があるわけですが、全ては考え方次第と言われます。セーリングが大変だ、難しい、そういう事が無意識に真っ先に出てきますと、セーリングはそう楽しいものでは無くなります。ヨットを買おうと決めた時、誰でも、脳は快感を感じています。どれにしようか、どんなのが良いのか、楽しくてしょうがない。ところが、多くの場合、一旦手に入れてしまえば、そうでも無くなる。あれこれ考えていた時の方が楽しかったと言われる方々も少なくない。

でも、本当はこれはちょっとおかしい。あれこれ考えていた、想像していた場面を、今度は実際に体感できるわけですから、もっと楽しくならないと嘘です。ところが、そうはならない人というのは、想像と現実のギャップを感じてあるのかもしれません。しかし、ここがポイント。想像とは違う事もあるでしょう。でも、現実は体感でありますから、想像をはるかに超えるはずです。ここで、もっと面白いものにしようという考え方こそが必要かと思います。

多くの人達は現実主義かもしれません。ですから、現実を目の前に、うまく行かない事を嘆く。嘆くというのは大げさですが、でも、それに近い。それでは、セーリングを楽しむ事はできない。ここで、もっと想像して、その先のもっと面白い事を想像できるか否かにかかっている。本当は現実なんてものは、相対的評価にしか過ぎないので、絶対ではありません。現実は現実なのですが、その評価の仕方が問題です。

セーリングは楽しいし、面白いのです。そういう考え方を持てるかどうか?現実がどうかなんてのは問題じゃない。考え方次第です。その前に難しいとか考える人はセーリングを楽しむ事はできません。たったそれだけの違いではないかと思います。楽しんでいる人は、きっとそう考える。セーリングは面白いと考える。理屈では無く、そう感じている。時化に会おうが、飛沫に濡れようが、面白いと感じてしまう。

少なくとも、ヨットしようと思う方がヨットを始めるわけですから、嫌いじゃできません。でも、始めたら、好きか嫌いかという問題では無く、良いとか悪いとか言う問題では無く、どういうゲームをしようかと望むのが良いのではないかと思います。自分のしたいゲームは何かと想像を膨らませる。そこに快を感じる事になります。たまたま良い感じだったでは弱いわけです。

そこで、セーリングを楽しむ最大の動機付けは、自由自在のセーリングをしよう、できるようになろうです。自由自在にセーリングができるようになったら、どんなに楽しいか、面白いか、ヨットと自分が一体になった感じはどうでしょうか?何でもそうですが、楽器を自由自在に操れる人にあこがれます。スキーを自由自在に滑れる人にあこがれます。野球にしても、ただ投げるだけでは無く、緩急やコースを投げ分けて、変化球でも投げれるようになったら、相手バッターに対してのレベルの高いゲームを楽しめる。バッターにしても同じで、どう打ち崩すかを考えるなら、それなりのレベルのゲームが楽しめる。

ヨットをそうそう自由自在に操れる人は少ないかもしれません。何の違和感も無く、馴染んでいる人はそう多くは無い。では、難しいのかというとそういう事では無く、回数乗れば馴染むように出来てます。その回数を乗る為には、自由自在を目指して、そういう動機付けが必要です。誰でもできるんですが、多くはしていない。

大きなヨットや豪華なヨット、そんな事より、自由自在感を持つというのは、実に面白いかと思います。馴染んでしまうと、次のレベルの事を考える事ができます。腕は兎も角、まずは馴染んでしまう。そして、そこに留まらないで、もっと質の高いレベルを目指す。もっとうまくなろうとする。それで、自由自在感が生まれる。そうしたら、もっと面白い何かが見えてきます。これはそういう事を望んだ人にしか解らない世界です。

宴会が楽しいのは解ってます。仲間と楽しい時間を持てるのが楽しい。家族と一緒に乗るのも楽しい。でも、敢えて言えば、楽しいだけでは薄っぺらで、10年や20年という時を過ごすには、物足りない。充実感やわくわくした感じ、感動とか言うものを味わっていかなければ、そんなに長く続けられるでしょうか?それには、冒険心や挑戦や、探究心というものが無ければならない。解明していく事によって、謎は解かれ、少しづつ進化していきます。それが面白さなのではないでしょうか?
そこに面白さがある。自由自在の世界がある。みんながあこがれる世界がある。それを少しでも味わおうと思う欲求が無ければ、ヨットを本当に楽しむ事はできないのではないかと思います。

次へ       目次へ