第三十六話 贅沢な話

豪華な家に、豪華な別荘、高級車に豪華なヨット、自家用飛行機を飛ばして、うまいものを食べに行く。ヨットで行く。何て贅沢なんでしょう。世の中、お金さえ出せば、世界のありとあらゆる物を手に入れる事ができる。あの有名なドバイに家を持つ事もできれば、モナコにスーパーヨットを持つ事もできる。球団を買い取って、一郎を雇い、オーナー席で観戦する事もできる。ところが、それが可能となった方にとっては、それだけでは不十分。所有だけでは不十分さを感じてしまう。

ありとあらゆる贅沢を可能にするにはお金が必要です。でもそうなる為には冒険心が必要でしょう。まあ、中にはヨーロッパなんかですと先祖代々からお金持ちで、働いた事が無いという人も居るようですが、それ以外は、普通は冒険心を持って、事にあたり、その結果、大金持ちになった。大なり小なり、そういう方は元々冒険心を持っているわけですから、所有だけに満足はできません。
元からあった冒険心が、また何かをさせようとします。

ヨットを所有し、毎年高い係留費用や維持費を支払い、そして年に1回か2回、マリーナに来る。なんと贅沢な事。もったいないは貧乏人の発想かもしれません。でも、冒険心を持った成功者にとって、所有欲だけでは満足できない。もっと贅沢な事は何か?と考えますと、それは心を満たす何か、スリルであったり、冒険であったりするわけです。所詮、物だけでは満足できなくなる。

物が豪華であるか否かは別にしても、何らかの冒険をしたくなる。方法はそれぞれです。豪華客船で、世界を回る。それも冒険でしょう。数年前ですか、80フィートのヨットに老夫婦がクルーを二人雇って世界を回っていました。これも贅沢な冒険です。

究極的には、贅沢というのは、何の役にも立たない冒険をし、自分の心を満たそうとする事かもしれません。危険な冒険もあれば、日常的な冒険もある。知らない土地に行く冒険、した事が無い事に踏み出す冒険、手段はいろいろありますが、新しい事をするのは勇気が要りますし、それをするのが冒険ですし、この冒険無くして満たされる事は無い。

つまりは、冒険そのものが贅沢なのかもしれません。この冒険心は誰にでもDNAとしてあり、退屈だなと感じる時、その冒険心が疼いているからでしょう。逆に、何らかの冒険をしている時、誰も退屈さは感じないし、ハラハラ、ドキドキするかもしれませんが、心が実に動いています。大なり小なり、この冒険心を満たそうとする行為、これが究極の遊びであり、究極の贅沢かもしれません。その行為が自分の興味の中にあるなら、これ以上に面白い事は無い。

冒険と言いますと、危険な事をすると思ってしまいますが、そうでも無く、危険で無くても、自分の領域外に出る事、新しい事、未経験な事は全て冒険の一種。新しいヨットを買う。これも冒険であります。が、しかし、一旦入手したら、冒険は終わりですから、また次ぎが必要になる。何であってもできた時点で冒険は終わる。それで次々に新しい冒険をしないと、贅沢な遊びはそこまでで終わりです。つまりは、贅沢は自分次第という事になります。

つまりは、究極の贅沢は冒険であり、その冒険は常に更新されないと、そこで終わる。冒険こそが心を満たすものであり、それさえあれば手段は何でも良い。この冒険DNAがあるからこそ、人は浮気したり、何かを手に入れたかったりするのかもしれません。考えてみればいろんな冒険があります。毎日が日曜日であるより、忙しい仕事の合間をぬってヨットに乗るとかの方が冒険心を満たすかもしれません。海に出る事は冒険です。そして格好の冒険は旅という事になります。旅は冒険の宝庫であり、ですからみんなどこかに行きたがる。

デイセーリングは冒険ですが、それがしょっちゅうやるうちに冒険心を満たせなくなる。慣れというやつです。ここからが難しいところです。デイセーリングは手軽で面白い。誰でもできる。でも、本当はデイセーリングにおいて冒険心を維持するのはかなり難しい事かもしれません。誰でもできるという事は簡単な事であり、そこに新しいものを見つけて行くというのは、誰でもできるかどうか?旅は誰でもはできない。遠くになればなる程、難しい。ですから、行ければそれはもう冒険であります。しかし、デイセーリングは誰でもできる。できる故に、そこに冒険を見出すのは難しい。場合によっては旅をするより、デイセーリングは難しいのかもしれません。

そこで考えてみますと、デイセーリングに冒険性を見出す為には、より向上、進化していくしか無い。微妙な変化、微妙な調整、微妙さを感じる感性、工夫したり、いろいろやる。そこにこそ冒険性がある。うまいから冒険できるのでは無く、うまくなる過程が冒険でしょう。しょっちゅうデイセーリングしますと、マンネリ化してきます。それでも、そこに面白さを見出していくというのは簡単では無い。でも、そこに究極の贅沢がひそんでいるような気がします。

冒険の種類は人によって異なります。旅であったり、セーリングであったり、それぞれの方法で、冒険を求める事によってのみ、永続的に遊ぶ事ができる。で、これはお金では手に入れる事ができない。贅沢の極みであります。豪華なヨットは贅沢ではありますが、それを手に入れた人も、冒険をしたくなる。もっと上の贅沢であります。つまりは、誰でも、そんな贅沢をする可能性を持っている。ヨットは違えど、究極の贅沢をする事ができる。これがとっても難しい。だから、それができるというのは贅沢なんですね。ですから、そこに夢が広がります。そうなると想像するだけでも楽しくなる。

贅沢というのは、誰でもできれば贅沢とは言いません。誰もできない事をするのが贅沢です。デイセーリングは贅沢ではありませんね。誰でもできます。しかし、そこに面白さを常に見出していく事は誰でもはできない。それで贅沢なんです。旅は、もう贅沢そのものという事になります。近場は別にしても、日本一周したり、世界に出たり、誰もそう簡単にはできない。ですから贅沢な話です。そう考えますと、豪華な、ビッグなヨットであっても、たくさんのご馳走があっても、ちっとも贅沢ではありません。もちろん、誰でも豪華なヨットを手に入れる事ができるわけではありませんが、この手の贅沢はそこで完了してしまう事です。アメリカの大金持ちが、カスタム艇を手にするのに、5年も待ったという話は少なくない。フロリダのマイアミより北にある、フォートローダーデールのマリーナには、そんな大金持ちのカスタム艇ばかりずらりと並んで居た。5年も待つ事が自慢であり、贅沢でもあった。ひょっとすると、待っている時間が贅沢で、手に入れた時よりも贅沢であったかもしれない。ですから、彼らは良く、この艇を手に入れるのに5年も費やしたと自慢げに話す。

どこに贅沢さを見出すかは勝手です。自分の贅沢を見つけて、それを満喫する。次から次へと。それができれば人生贅沢三昧。楽しい人生には、それしかない。でも、誰でも簡単にできないのが贅沢ですが、よくよく考えてみれば、本当は自分独自の贅沢さがどこかにある。人の贅沢と同じ事をしようとするとできませんが、自分の贅沢ならできるはずではないか?最後はこれしかないと思いますね。それでも、ちょっと難しい。その難しさに挑戦する冒険が贅沢なのでありますから、やはり簡単では無い。まあ、いろいろあります。

ヨットしない人から見れば、ヨットやるだけで贅沢に見えます。でも、マリーナに来たらみんなヨットやってますから、ヨットやるだけでは贅沢とは言えない。本当の贅沢はその向こう側にある。先日、アレリオンでセーリングしてきました。何と贅沢なんでしょう。美しい船体は贅沢です。帆走の面白さは贅沢です。風も贅沢ですし、そこでいろいろ操作しながら走らせるのも贅沢。いや〜、贅沢って良いもんです。

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