第五十九話 いろいろある

どんな時代になろうが、セーリングにはやっぱり、いろいろあります。無風から強風、波、雨、かんかん照り、暑くて、寒くて、自然の動きそのままがある。それがセーリングだろうと思います。どんなに技術が発展しても、それらを全て制御できるようにはならないし、また、なっては面白く無くなる。
その制御できない、自然のままの部分を味わおう、何とか、そのままでも自分の操作とかで、よりバランスを取ろうとするのがセーリングという行為かと思います。今日、快適な、本当に気持ちの良いセーリングが出来たとしても、明日はどうなるか解らない。思いのままにならない。それを敢えて、やろう、楽しんでやろうというのがセーリングです。

でも、人間ですから、より楽を求める。ですから、メインファーラーにします。でも、いろいろある事をそのうえでも受け入れる事、受け入れる事によって、便利や快適さを越える快感が得られる事、
それを味わえる事、味わいたいという気持ち、これがヨットをやる一番の動機かなと思います。
メンファーラーだろうが、電動ウィンチだろうが、楽な操作で、この快感を得られるなら良い。これはただ、動かしたという次元ではありませんね。動かしただけでは無く、操船、帆走したんです。

ですから、ちょっとでも良い、大海で無くても良いと思うわけです。コントロールできるのは、舵とセール角度と形状です。風も波も制御はできない。その制御できない自然に対して、どれだけ対応して、どんな味わいを得られるのか、それを楽しむ行為がセーリングです。それも、かつて対応しきれなかったのが、少しづつ対応できるようになる。それも楽しみのひとつ。

一方、大海を渡るという味わいもヨットにはある。これはまた別な味わいでしょう。太平洋を渡るなんてのは、どんな気分でしょうか?これにもいろいろあります。太平洋とは行かないにしても、沿岸をクルージングして回るという楽しみ方もあります。そしてこれにもいろいろある。

どんな乗り方であろうが、いろいろある。そのいろいろを受け入れない事には何もできない。実は、このいろいろあるという事がなかなか受け入れられない。できれば何でも制御してしまおうというのが人間ですから、なかなかそのまま受け入れる事は難しい。受け入れられないから、思いのままにならない事に苛付きます。何でも思い通りにしようと思うのは傲慢なのかもしれません。

それで、最も気楽になれて、もっとも受け入れ易いのがデイセーリングなのです。デイセーリングでセーリングを根底に馴染ませる。セーリングする事が、特別では無く、普通の事のように。嫌になった時は、帰る事がすぐにできる。何度も、何度も簡単に出る事ができる。最も根底にあるべき遊び方ではないかと思う次第です。デイセーリングというと軽んじられているような気がします。どこかに行った事を自慢する人は居ますが、デイセーリングを自慢する人は居ない。でも、セーリングが自分の体と意識の中に馴染んでいく事は、具体的な自慢はできないかもしれませんが、とっても大事な事、長いヨット人生を考えますと、とても価値ある事ではないかと思います。一生涯をデイセーリングに費やしても価値ある事ではないかと思います。

どこかに行った事が無い。しかし、セーリング自体が、馴染んでいる。ヨットが手足の如く動かせる。誰よりも気楽に、セーリングを楽しむ事ができる。頭を使わなくても、感覚的に操船できる。そういう事は、結構価値あると思います。何せセーリングが美しい。大海を渡る価値とも変わらないと思うのですが。

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